②京都(桂川~嵐山)


桂川(カツラガワ)

左手に、『桂川』の流れをご覧いただきながら車を進めておりますが、この桂川は『渡月橋=とげつきょう』の辺りでは大堰川(おおいがわ)として、又、上流へ参りますと筏流(イカダナガシ)し、保津川(ホヅガワ)下りとして有名な保津川として流れ、下流は宇治川(ウジガワ)から淀川に合流して、大阪湾に注いでおります。この流れを開いたのは、1606年に高瀬川(タカセガワ)を開いた角倉了以(すみのくら)の時で、当時、我国で初めてダイナマイトが用いられたそうです。


保津川下り (ホヅガワクダリ)

ところで、『保津川下り』は亀岡(カメオカ)市保津川町から嵐山の麓まで16k程を1時間40分位で下って来る舟下りのことを言います。途中、老の坂(オイノサカ)山脈を横断しているため、水量はさほど多くありませんが、流れの急な所が多く風景も素晴らしい為、春から秋にかけて楽しむ人が多いそうです。


嵐山(アラシヤマ)

いよいよ天下の名勝(メイショウ)『嵐山アラシヤマ』に到着いたします。

春は桜、五月の新緑、夏は川面(カワモ)を吹き渡る涼風(リョウフウ)に暑さを忘れ、秋の紅葉(コウヨウ)、冬の雪景色と四季折々の風光が楽しめる『洛西一(ラクセイイチ)』の名勝でございます。歴代の天皇も大堰川行幸(オオイガワギョウコウ)と申されて度々ここに行幸され、山にあるいは川にと御遊びの宴(ウタゲ)をはられたといわれます。

殊(コト)に御舟遊(オフナアソビ)びには、かの竜頭(リュウトウ)げき首(シュ)の舟を浮かべ詩歌(シイカ)、管弦(カンゲン)を奏(ソウ)してみやびやかな絵巻物(エマキモノ)を繰りひろげられたのです。


前方ご覧下さいませ!緑の山裾を縫って流れている大堰川(オオイガワ)にかかる美しい橋が『渡月橋トゲツ』で、橋を渡った所が『中の島公園』で、『五木茶屋』などがございます。


渡月橋は、月が渡る様に似ている所から亀山天皇が命名されたそうですが、現在の橋は、嵐山の景勝にとけこむ様に設計され、長さ154m、昭和9年に完成しております。


参考

「五木茶屋」は、歌手五木ひろしさんが建てたものでしたが、今は、経営者が変わっています!こちらでは「京丼五種食べ比べ膳」が一番人気とか、旬の食材使った5種丼が一直線に並んだ姿がインスタの女の心掴み、週末になりますと、若い女性が殺到しています。


正面、渡月橋の左上、高い山が『嵐山』、又、嵐山から右下、お椀を伏せたような山が『小倉山(オグラヤマ)』、その小倉山の隣、鳥居の形に山肌を見せている山が『水尾山(ミズノオサン)』、さらに水尾山の後方一際、高い山が『愛宕山

(アタゴ)』でございます。


法輪寺(ほうりんじ) 

左手、川向こうご覧下さいませ!木立の中にきみどり色の塔がご覧いただけますが、『嵯峨野(サガノ)の十三参り=サガノジュウサンマイリ』で有名な『法輪寺』の塔でございます。和銅(ワドウ)6年(713)に元明(ゲンメイ)天皇の勅願(チョクガン)により、虚空蔵菩薩(コクウゾウボサツ)をご本尊として、行基菩薩(ギョウキボサツ)が創建しております。


嵐山『美空ひばり館』

美空ひばり館は、平成6年3月24日に工費、約50億円を投じて完成しております。美空ひばりさんは、昭和12年5月23日、横浜で生まれ、小さい頃から大変歌の好きなお子さんで、昭和21年9歳の時に『NHKのど自慢素人音楽会』などに出演し、同年、横浜市のアテネ劇場で初舞台を踏み芸能界入りを致しました。そして昭和23年11歳の時に『美空ひばり』と名乗るようになり、翌、昭和24年にはレコードデビューをし『悲しき口笛』『東京キッド』『りんご追分』『ひばりの花売娘』『港町十三番地』『ひばりの佐渡情話』『悲しい酒』『川の流れのように』など数々の名曲を歌い続けました。このような中、昭和62年4月22日、50歳の時に『大腿骨骨董壊死』で入院しますが、一時、回復し、翌、昭和63年には東京ドームで復活コンサートを開くまでになりましたがその後の体調は良くなく平成元年3月21日、52歳の時に東京順天堂大病院に緊急入院、6月24日にお亡くりになられておりますこの美空ひばりさんの徳を忍びまして、ひばりさんの大好きだった嵐山に記念館が建てられております。


天竜寺(てんりゅうじ)   

天竜寺は、臨済禅宗天竜寺派(リンザイゼンシュウテンリュウジハ)の大本山(ダイホンザン)で、京都五山(キョウトゴザン)の第一位におかれた名刹(メイサツ)でございます。もとは後嵯峨(ゴサガ)天皇、亀山天皇の離宮(リキュウ)であった亀山殿(カメヤマデン)のあとでしたが、延元(エンゲン)四年(1339)足利尊氏(アシカガタカウジ)が不遇(フグウ)の中に亡くなられた御醍醐(ゴダイゴ)天皇の霊(ミタマ)を慰(ナグ)めるために、夢窓国師(ムソウコクシ)を開山(カイザン)として建てられたお寺です。当時、長く途絶えていた中国(元)との貿易を再開して、その利益をお寺の建立資金としたことから『天竜寺船(セン)』の名が起こりましたが、この貿易事業は室町に入ってからも行われて、経済や文化に貢献したということです。お寺は、八度もの大火に見舞われ明治になってから法堂(ハットウ)、本殿、方丈(ホウジョウ)などが再建され、見るべき宝物はございませんが、庭園だけは室町初期の物といわれ、苔寺(コケデラ)と共に我が国屈指(クッシ)の物として有名でございます。


庭園    

亀山と嵐山を借景とした池泉回遊式庭園は、夢窓国師がお作りになったもので、夢窓国師が作られた庭園の中では最もすぐれていて国の特別名勝、史跡に指定されています!

前庭は、州浜形(すはまがた)の汀(みぎわ)と島を配しており、池の奥の山際の岩石は、渓谷を現し渓流が池に落ちる滝の様子を二枚の岩で現しております。この鯉魚石(りぎょいし)の配りは『登龍門』の故事、黄河上流の急流の渓谷『竜門をひとたび乗り切った魚は竜と化す』になぞらえております。自然石の岩や三尊(さんそん)形式の岩島など、いずれも背後の景色に溶け込んで、四季折々の趣がございます。又、書院北には後嵯峨天皇、亀山天皇の御陵があり、境内には足利義満のお墓がございます。ところでこちらの境内にある『西山草堂』の湯どうふですが『嵯峨野の味覚』といわれており、嵯峨を舌で味わっていただくのもおつな物かと思います。ちなみに、京の味の『湯どうふ』は、南禅寺と嵯峨野の大覚寺、天竜寺が有名でございます。


法輪寺、渡月橋を渡った山麓にあります。


法輪寺 

法輪寺は、713年(和銅六年)行基が開かれたもので、御本尊の虚空像菩薩は三重県伊勢の「金剛証寺」福島県河沼郡柳津町「空蔵寺」の虚空蔵菩薩と共に、『日本三虚空蔵』の一つに数えられており、人々からは「嵯峨野の虚空蔵さんの名で知られております。京都では、13の年(歳)になりますと、この法輪寺にお参りして、福徳と大人の知恵を授かってくるのです。これを『嵯峨野の十三参り=ジュウサンマイリ』と言って、毎年四月には、美しく着飾った子供達が、嵯峨野の虚空蔵さんにお参りする和やかな風景が見られます。   ところで、虚空蔵さんの帰りに渡月橋を渡りますが、その際、渡り切るまで後ろを振り返ってはいけないという事になっており、もし振り返ると、せっかく授かった知恵を失ってしまいます。


小倉山   

前方に、五山送り火で知られます鳥居形の『水尾山』が、又、その左手には『小倉山』がご覧いただけます。小倉山は、標高280mの小さな小山ですが、古くから景色の良い所として知られた山です百人一首に

『小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆきまたなん』とありますが、これは『小倉山の峰の紅葉の葉よ、もしお前に心があるのならば、もう一度、天皇の行幸までどうか散らないで待ってほしい』という意味です。その昔、宇多天皇が小倉山の紅葉の美しさにすっかり感激されて、醍醐天皇も行幸をとおっしゃった際に、藤原貞信公(ていしん)が詠んだものです。

※この小倉山の東の麓には、常寂光寺、二尊院、滝口寺、祇王寺、念仏寺などが、いかにも嵯峨野のお寺らしい落ち着いた趣を見せております。       


常寂光寺(ジョウジャッコウジ)

常寂光寺は、小倉山の地が仏のいる常寂光土に似ている所から、この名前がつけられています。江戸時代の始め、日蓮宗の日禎上人(ニッテイショウニン)が退隠所(タイインジョ)としていたところをお寺にした物です。

木の間がくれに見える仁王門や多宝塔の端正な姿や美しいカエデを見上げておりますと、別世界に来た様な静かで和やかな気持ちになります。日本を代表する歌人『藤原定家』の山荘がこの辺りにありお正月に今なお人々に親しまれています『小倉百人一首』も、その山荘で選ばれております。ところで、藤原定家の歌に

『こぬ人を まつほの浦の 夕なぎにやくやもしほの 身もこがれつつ』 

とありますが、これは『待てども来ない人を待って、あの松帆の浦の夕なぎの海辺に焼く藻塩(モジオ)ではなすが身も心も恋いこがれつつ、私にはせつない、毎日が続くのです』とこんな意味にあたるそうです。


二尊院(ニソンイン)   

二尊院は、本堂に『釈迦如来』『阿弥陀如来』の二つの像を祭っている所から、名前が付けられております。

このお寺は、嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が建てられたのが始めといわれます。

現在の本堂は、永正18年(1521年)三条西実隆父子によって再興されたものです。

境内には、三条西実隆、角倉了似などのお墓がございます。


 


滝口寺(タキグチデラ) 

滝口寺は、平家物語や高山樗牛

名著(タカヤマチョギュウチョ)『滝口入道』でおなじみの寺です。平家の武士『滝口入道』は、身分違いの横笛と恋をするのですが、親に反対され思い余って出家するという悲恋物語です。

本堂には、二人の像が安置され、門前に横笛の碑が立っております 


祇王寺   

又、嵯峨野の祇王寺と言えば、四季を通じて若い女性の観光客に最も人気のある所です。

それと申しますのも、この祇王寺には『祇王』と『仏御前』にまつわる悲しい物語が伝わっているからです。祇王は、当時全盛をふるっていた平清盛の寵愛を一身に受けた白拍子でした。ある日、年の若い一人の白拍子が訪れ、自分の舞いを見てほしいと清盛に頼みますが、祇王を愛している清盛は、その白拍子を追い返そうとしたのです。

それを聞いていた祇王は、昔の自分の姿を思い出して『せめて舞いだけは・・・』と清盛にとりなしをしてあげたのですが、舞いを舞った仏御前は、よく見ますとこぼれるばかりの美女で、清盛はすっかり心をうばわれてしまったのです。哀れにも捨てられた祇王は、尼となって嵯峨野の往生院に庵を結んでおりました。ある日のこと、訪れる人もない寂しい庵の戸を、トントンとたたく人がおりますので、驚いて開けて見ますと、何と仏御前が立っているではありませんか!祇王に変わって清盛の寵愛をえた仏御前でしたがあすは我が身、世の無常を悟り世捨て人となったのです。

それからは、仲良く念仏三昧(ざんまい)の余生を送ったのですが、その往生院はこの祇王寺付近ということで、縁のものがございます。


念仏寺(ネンブツジ)  

念仏寺は、正しくは『華西山東漸院念仏寺(カサイサントウザイイン ネンブツジ)といい、弘仁(コウニン)年間(810~)弘法太師がこの地に葬られた人の菩提(ボダイ)を弔(トムラ)ってお寺を建て、五智山如来寺(ゴチサンニョライジ)と名乗ったのが起こりで、本尊は阿弥陀如来(アミダニョライ)でございます  

私達が目を奪われますのは、境内にあります約8千という石仏で、何れも、この付近から掘り出れた物です。平安の昔から墓所(ボショ)だった所で、この化野(アダシノ)の他に清水近(キヨミズ)くの『鳥辺野(トリベノ)』粟田口(アワタグチ)の『華頂山(カチョウザン)『狐塚(キツネザカ)』と『西院(サイイン)』の五ヶ所があり、鳥辺野は火葬でしたが、ここ化野(アダシノ)は、土葬か風葬だったようで辺りには、野の露とかしていった沢山の人々が眠っていたのです。           

そうした、私共の先祖(センゾ)を慰めるために、お彼岸、地蔵盆、虫供養の夜には『千灯供養(セントウクヨウ)』が行われ、夕暮れと共に石塔(セキトウ)の一本ずつにろうそくが灯される様子は、川端康成の小説『古都』にも描かれております。幾千もの灯が、まるで石仏が息をしているかの様にゆれるとき、私共の心も無常感にひたされる様に思われるのです。ところで『化野の露、鳥辺山の煙』といわれた、兼好法師の『徒然草』にある『化野』は、今では北嵯峨の地名となっていますが、昔は『この世の果て』ということで使われていたようです。 


清涼寺   

清涼寺は、『嵯峨の釈迦堂』として知られ、本尊の『釈迦如来立像』は、三国伝来の釈迦として有名で、お顔や衣はインド系の形式を示す異国的な仏像です。

又、毎年3月15日には、遠近から多くの農民が集まって『松明祭り』が行われますが、本堂の前で大きな3本の松明を燃やし、その燃え具合によってその年の豊凶を占うものです。  


 落柿舎(ラクシシャ)  

落柿舎は、俳人『向井去来』が住んでいた所で、主人の在宅を知らせる為、門の所に蓑と笠が掛けれております。       

また、庭の片隅に      

柿ぬしや 木ずえは近き 嵐山

と記された句碑が立っております落柿舎という名前は、昔、商人

の柿の買い入れを決め、代金を置いていったそうですが、その夜、嵐が吹き柿の実のすべてが落ちてしまった所から生まれた物です。