①京都(京都東IC~桂川) 


京都東IC-国道1号線―山科区-東山トンネル-東山区-五条大橋(鴨川)―堀川五条-国道9号線―五条天神川(左に光華高、中、小、右に光華女子大・短大部の交差点)―天神川四条(てんじんがわしじょう)―京都市道186号線―三菱自動車京都製作所―梅宮大社(うめのみやたいしゃ

)―罧原堤(ふしはらつつみ)四条―京都府道29号線-西芳寺(セイホウジ)




東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)

前方、左右にのびるなだらかな山並が、京都の名山(メイザン)『東山三十六峰』でございます。


『ふとん着て 寝たる姿や 東山』と、服部嵐雪(はっとりらんせつ)に詠まれております。

俗に『東山三十六峰』といわれますが、実際には二十四峰(にじゅうよんみね)程しかないそうですが、この山の形が中国の『ろくろく山』に似ているところから『六×六』で三十六峰にしたそうです。



花山天文台(かざんてんもんだい)

右手、家並みの奥をご覧下さいませ!

山の上に、白く丸い建物が見えておりますが、昭和2年に作られました、京都大学理学部に属します

『花山天文台』でございます。

花山天文台の後ろ、西側を、東山ドライブウエイが横切っております。

あちらの山裾(ヤマスソ)には

『あまつ風 雲の通ひ路(じ)ふきとぢよをとめの姿 しばしとどめむ(ん)』と百人一首で知られます平安時代の六歌仙(ろっかせん)の一人、僧『遍昭(へんじょう)』のお墓がございます。

※歌の意味ですが、空を吹く風よ、雲の中にある(天上と地上との)通り道を(雲を吹きよせて)ふさいでおくれ あの天女の(美しい)姿を、もうしばらくこの(地上に)とどめておきたいものである(から)


岩屋寺(いわやでら)

又、こちら東山三十六峰の一つ音無山(おとなしやま)の麓には、忠心蔵(ちゅうしんぐら)で知られます大石良雄(オオイシ ヨシオ)の閉居(へいきょ)の跡『岩屋寺』がございます。

大石良雄(オオイシ ヨシオ)が一年間、敵の目をくらますために隠れ住み、主君『浅野匠之守=アサノタクミノカミ』の仇を打つために、表面は放蕩(ほうとう)な生活を続けながら、絶えず江戸の同志と連絡をとりつづけ、人知れず用意して元禄(ゲンロク)十五年十月六日、5人の同志と共に、表面は日野家の御用商人と称して、大長持二棹(おおながもちふたさお)に討ち入り道具一切を入れて人夫にかつがせ、露けき秋の五十三次を堂々と東下り(あずまくだり)し、十二月十四日の夜、めでたく本懐(ほんかい)を遂げたのです。

こうした『赤穂四十七士』仇討ちの物語りは、今も尚、映画、テレビなどで語り継がれております。




笠原寺(りゅうげんじ)

左手、少し入った所に『笠原寺』がございます。

神奈川県川崎市にございます真言宗智山派(しんごんしゅうちざんは)大本山川崎大師(だいほんざんかわさきだいし=金剛山金乗院平原寺こんごうさんきんじょういん)『川崎大師』の京都別院ですが、京都でも有名な料理旅館を経営していました笠原政江(かさはらまさえ)さんが尼となって開いたお寺で、笠原さんの名前から『笠原寺(りゅうげんじ)』呼ばれ、川崎太師の京都別院になっております

お寺としての歴史は浅いのですが、『一日尼僧スクール』というのを開いて一躍有名になりました。

この尼僧スクールは、毎月第1日曜日と弘法大師の誕生日、毎月15日の2回、開かれています。

時間は、午前9時~午後3時(興味のございます方はいかがでしょうか?

尼さんの生活が体験出来る!中々の人気だとか・・



西本願寺山梨(ヤマシナ)別院

右手のお寺は、西本願寺の山科別院で、俗に『山科西御坊(ニシゴボウ)』と呼ばれております。

ここは始め、山科本願寺がありましたが、天文元年、日蓮宗徒と細川晴元の焼き打ちに合い炎上してしまった為、享保17年(1732)、北山の『舞楽寺=ブガクジ』を移したのが、現在の別院でございます。

又、この西別院の近くには東別院もあり、この二つのお寺の間に、蓮如(レンニョ)上人のお墓がございます。



小野小町(オノノ コマチ)

皆様、平安朝の悲恋(ヒレン)として知られます小野小町と深草少将

(フカクサノショウショウ)との恋ロマンスを

ご存知でしょうか?

『東男(アズマオトコ)に京女(キョ オンナ)、クレオパトラか陽気妃か』と美人として歌われました、小野小町が山科(ヤマシナ)に住んでいた頃の事です。

深草少将(フカクサノショウショウ)が、小野小町に思いをよせておりましたが、ある日の事、小町は少将の心を試そうと『百夜通(ももよがよ)いをすれば、あなたの思い通りになりましょう』といったそうです。

その言葉を信じた少将は、あくる日から『百夜通い』の悲願をたて雨の日も風の日も雪の日も通い、後、一日でその悲願も達成出来るという九十九日夜(クジュウクヤ)、突然、降り出した雪のためにあえない最後をとげてしまったのです。

『女の一念岩をも通す』とか申しますが『男の一念』もなかなかの様です。

その時、送られたラブレター(恋文)が何と牛車(ギュウシャ)に七台半もあったそうです。

これを読む暇もなく、又、捨てるのもつれなく『焼くのには少々勿体ない』と大きな穴を掘り、その中に埋め塚を建てたのが『文塚』といわれ、この『文塚=フミヅカ』は、小野『随心院=ズイシンイン』に今も尚、残されているそうです。


随心院

これから、しばらくゆるい坂道を登ります。


清水焼団地

※新大石道の信号を左へ5分程参りますと、『清水焼き団地』がございます。

清水焼きは、今から1300年程前、行基(ギョウキ)というお坊さんが窯を作って焼いたのが始まりで、その後、技術や原料に改良が加えられ、今日に至っております

この清水焼きは、京都の伝統産業の一つで、以前は五条坂辺りから南の泉涌寺(せんにゅうじ)付近で焼かれていましたが、手狭(テゼマ)になった為この東山のふもとに移って来たのです。

こちらでは、すべての作業を共同で行っているそうです。

この清水焼きの特長は、うす物できめが細かく、手のひらにのせてたたきますと、金属性の音がするのが特長でございます。



東山(ヒガシヤマ)トンネル


これから『東山トンネル』をくぐります。

このトンネルを出ますと、皆様お待ちかね京都の町が広がって参ります


東山ドライブウェイ

東山ドライブウエイは、正式名称、一般市道渋谷蹴上線(いっぱんしどうしぶや けあげせん)と言いますが、花山天文台に連絡する道路、花山道路を日本道路公団の有料道路として開通したのがはじまりで、山科区日ノ岡(やましなくひのおか)と東山区清閑寺(ひがしやまくせいかんじ)結ぶ3,18kmのドライウェイでございます。

眺めは大変良く、京都市街を一望(いちぼう)することが出来ます



阿弥陀ケ峰(あみだがみね)

左手には、阿弥陀ケ峰がございます。この山の麓に織田信長、徳川家康と共に、戦国三英傑(さんえいけつ)の一人、豊臣秀吉のお墓、豊国廟(ほうこくびょう)がございます。

秀吉と言えば、

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」

という名言(メイゲン)で有名でございます。


『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』信長


『鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス』家康


東山トンネルくぐり坂道を下って来ますと正面に西大谷本廟が見えてきたら!


西大谷本廟(ニシオオタニホンビョウ)

正面に、西大谷本廟の建物が見えて参りましたが、この建物を目印に右手後方をご覧くださいせ!

三重の塔がご覧いただけますが清水寺でございます。『舞台造り』や『一寸法師』でおなじみです。

又、西大谷本廟は西本願寺の納骨所(ノウコツショ)で、親鸞上人(シンランショウニン)を始め、歴代法主(ホッス)や信徒のお墓が18000基(キ)程ございます。


東大路通(ヒガシオウジトオリ)

車は、東山五条(ヒガシヤマゴジョウ)の交差点を通過致します。

左右の通りが『東大路通』で右に参りますと、八坂(ヤサカ)神社の近く祇園(ギオン)・八坂神社、平安神宮方面に、又、反対、左に参りますと国立博物館や三十三間堂(サンジュウサンゲンドウ)方面におこしいただけます。


六波羅密寺(ろくはらみつじ)

こちら右手に入った所には、六波羅密寺がございます。

ここは昔、平家の六波羅屋敷があった所で、後、鎌倉幕府の探題(タンダイ=)が置かれたことから、源平両氏の史跡としても知られております。

この跡に、空也(クウヤ)上人が悪疫退散(アクエキタイサン)の祈念(キネン)をこめて、十一面観音(ジュウイチメンカンノン)を本尊として建てたのが『六波羅密寺』で、現在、空也上人と平清盛(タイラノキヨモリ)が祭られております。

尚、このお寺は『西国(サイゴク)巡り』17番目の札所(フダショ)になっており、近くには、京都七福神(シチフクジン)の1つ『えびす神社』がございます。


五条大橋を渡る手前から話し始めて下さい!


間もなくで、鴨川(かもがわ)にかかります『五条大橋』を渡ります。

この橋は、牛若丸(ウシワカマル)と弁慶(ベンケイ)が太刀(タチ)の取り合いをした という話で有名です。

現在の橋は、昭和34年に新しく架け替えられた物ですが、橋の欄干(ランカン)にある擬宝珠(ギボシュ)は正保(ショウホウ)2年(1645)のものといわれます。

橋を、渡ります時、右手をご覧いただきますと、松原橋,団栗(どんぐり)橋と見えますが、三つ目の橋が四条(しじょう)大橋、そのたもとに『お座敷小唄』で有名な先斗町(ぽんとちょう)がございます。

又、反対、左手の橋が正面橋で、その奥、七条大橋(しちじょうおおはし=京都ではひっちょうおおはし)との間を六条河原と申します。

その昔、石川五衛門(イシカワゴエモン)や石田三成が処刑された所です。

中でも、石川五衛門の釜ゆでの刑は有名で『石川や浜の真砂(まさご)はつきるとも、世に盗人(ぬすびと)の種(たね)はつきまじ』と一句(イック)を残し、愛児と共に処刑されております。


扇塚(オオギヅカ=扇子の碑)

※五条大橋渡って右側に見えます。

右手、橋の左横ご覧下さいませ! 扇の形をした碑『扇塚=おおぎづか』がご覧いただけます!

有志により建てられた物で、この辺り毎年春になりますと、京の風物詩の一つ白くまばゆい扇子の骨が干されるそうです。(しらぼしという)


牛若丸と弁慶の石像

皆様、右手、ご覧下さいせ!

かわいらしい牛若丸と弁慶の石像がご覧いただけます。

この石像は『牛若丸の様に強く正しい人になって下さい』と子供さん達に夢を与える、童謡的な『御所人形風=ごしょにんぎょうふう』に作られております。


こうして弁慶さんと牛若丸さんの像をご覧いただきながら、河原町通を横断しましたが、左手に参りますと東本願寺が所有しています『枳殻邸』(きこくてい)がございます。


五条烏丸通(ごじょうからすまとおり)

これから、烏丸通を横断しますが、左手奥ご覧下さいませ!

京都のシンボル高さ131mの京都タワーがご覧いただけます。又、その手前、森が見えておりますが、『東本願寺(ヒガシホンガンジ)』でございます。

京都タワーは、京都駅の烏丸口北側(カラスマグチキタガワ)、徒歩二分位の所にあります。

烏丸通りは、京都の中心を南北に貫く大通りで、道路の下を京都で一番はじめに出来た『地下鉄烏丸線』が走っております。(令和5年 烏丸線と東西線2路線)



五条通

こうして進めています『五条通』は東大路(ヒガシオウジ)から西大路(ニシオウジ)を結び、更にR9となって老ノ坂峠(おいのさかとおげ)から保津川下り(ほづがわくだり)で有名な亀岡(かめおか)から、さらに城崎(きのさき)などの山陰方面に連絡しております。

五条通、戦前は大変狭い通りでしたが、戦争中、民家を疎開(そかい)させて、通りの巾を広げ舗装しております。

現在、東大路から堀川辺りまで巾50mあり、街路樹には『柳』と『桜』の木が植えてありましたが残念ながら桜の木はとりはらわれております。

また、この五条通に『柳』と『桜』の木が植えられましたのは昔、平安京(ヘイアンキョウ)が大変栄えていた頃、大宮人(オオミヤビト)が

『見渡せば柳桜をさきまぜて

   都ぞ春のにしきなりける』

と都の情緒を歌っていて、その昔の情緒を忍ぶために、五条通に都大路の有り様を再現されたといわれます。


堀川通

続いて、堀川通を横断致します。

この五条堀川の交差点にかかる歩道橋をご覧下さいませ!

長さ350mもあるという京都では一番長い歩道橋で、この交差点から左手つきあたりにお寺がございますが、西本願寺でございます

又、反対右手に参りますと、二条城から西陣を通り一休さんでおなじみの、大徳寺(ダイトクジ)方面へ起こしいただけます。



西本願寺



五条大宮

これから、五条大宮の交差点を横断致します。

左手に参りますと、西本願寺の裏側を通って東寺からR1へ連絡しておりますが、途中、西本願寺の西、七条大宮(しちじょうおおみや=ひっちょうおおみや) 交差点近くに、令和5年3月28日、春の甲子園で、宮城仙台育英と一戦を交えました龍谷大平安高校がございます。



千本通(センボントオリ)



JR山陰線

これから、JR山陰線をくぐりますが、高架をくぐる手前、左手『丹波口駅=たんばぐちえき』の近くに京都一の廓(くるわ)として知られました島原(しまばら=正式名―西新屋敷)がございます。

島原は、はじめ九条通(くじょうどお)りにございましたが、その後、あちらこちらと移転して、この地に移って来たのが寛永19年の事で、当時『島原の役』(寛永14年10月25日―寛永15年2月28日)の直後だった所から『島原』と名前がつけられました今でも、角屋(すみや)を始め格子造りの建物が残っております。


※日本三大遊郭=江戸の吉原、京の島原、大阪の新町



大阪ガス

左手は、大阪ガスの工場です。

この大阪ガス京都製造所の跡地から、高位の貴族邸と見られる平安時代の寝殿造り19棟の遺構が見つかっております。

この辺りは、王侯貴族の邸宅が集中していたという記録のあるところで、その為、昭和62年9月から発掘調査が行われ、昭和63年3月18日までに明らかにされました。

寝殿造りの跡は、これまで建物や庭園の一部が出土しているだけで、全部が姿を現すのは今回が初めてでございます。

その邸宅の規模や大きさ、又、遺構周辺から大陸産の青磁の茶器などが見付かっていることから、かなり高位の貴族の邸宅と見られています。

寝殿造りの構造は、これまで当時の絵巻や源氏物語などの文献によってしか知ることが出来ませんでしたが、この発掘によって今後具体的に解明されることになり、建築史だけでなく、日本文化史研究上も画期的な発見だといわれております。


西大路五条

これから、西大路通りを横断致します。

この通りを右手に参りますと、新しくお化粧直しをした、金閣寺へ起こしいただけます。


※皆様、右手奥ご覧下さいませ! 左大文字山がご覧いただけます。




日本刺繍館(ニホンシシュウカン)

日本刺繍館は、明治10年に創設されて以来、百年間にわたり、伝統の継承、技術の向上、研究が行われ、高級和装着物、帯の刺繍装飾はもとより浅草寺観世音菩薩打敷、祭事用品などの他、貞明皇后、昭和天皇の皇后、美智子妃殿下を初め、皇族各位のご用品なども受け賜っております。

日本刺繍館では、多くの刺繍作品、刺繍職人の仕事に向かう姿を通して、少しでも多くの方々に京都に伝わる日本の伝統技術を、ご理解いただく目的で公開されたものです。

刺繍の歴史ですが、太古の昔、魚骨針などで獣皮を縫い合わせる技術が生まれ、その裁縫技術がやがて刺繍という装飾技術として、今日まで4千年の間、受け継がれて来ました。

又、芸術としての刺繍は、応神天皇14年の春2月、百済から貢献された縫衣女(きぬぬいおんな)が始祖であり、又、1200年程前、遣唐使、吉備真備などの帰国により刺繍が工芸技術の一つとして、企業化したと伝えられます。



梅宮大社(ウメノミヤタイシャ)

右手は、『梅宮大社』の参道でございます。

梅宮大社は、お酒の神様として、又安産、子授けの神として知られております。

嵯峨(サガ)天皇(第52代)の檀林皇后(ダンリンコウゴウ)が祖先(ソセン)の霊を祭ったのが始まりで、その後皇后が皇子が授かります様にと祈願した所、仁明(ニンミョウわ)天皇が授かったと伝えられております。

それ以来、子授け、安産の神として信仰される様になりました。

境内にある『またげ石』をまたいでいただきますと子供が授かると伝えられ、今も沢山の御婦人達がお参りされるそうです。

又、桜門(ロウモン)のところに酒樽が奉納されており『酒造りの神』として、酒造家の信仰も集めております。


尚、ここの神苑(シンエン)は『カキツバタ』の名所で、5月には見事な花を咲かせ、沢山の人で賑わいをみせております。

※また、梅宮大社は境内を自由に歩き回る猫の姿を見ることが出来るところから『猫神社』とも呼ばれています。



罧原堤(フシハラツツミ)

これから、桂川(カツラガワ)にかかます松尾橋の手前を右に曲がりますが、真っすぐ参りますと『松尾大社(マツノオタイシャ)』から『苔寺(コケデラ)』に起こしいただけます。

この罧原堤は、嵐山を中心に洛西(ラクセイ)の交通難を緩和(カンワ)するために、松尾(マツノオ)から嵐山までのバイパス路線として設けられたものです。

この辺り、風致(フウチ)地区になっておりますので、ガードレールの変わりに鋼鉄線三本をはったガードロープ方式にされ、両側に松の木がおよそ100本程植えられております。

延長 1960m 巾 11m

工費 1億5千万円

工期 昭和36~昭和39年



松尾大社(マツノオタイシャ)

松尾大社は、大宝元年(タイホウガンネン=701)に秦氏(ハタシ)の氏神(ウジガミ)として建立されたのが始まりです。

その後、平安遷都(ヘイアンセント)と共に、賀茂(カモ)神社と並び王城鎮後(オウジョウチンゴ)の神として崇敬(スウケイ)され、江戸時代のころから酒造りの神として信仰を集める様になったのです。

境内には、年中枯れたことのない霊亀(レイキ)の滝や、亀ノ井という湧水(ユウスイ)がございます。

お酒を造る時に、この亀ノ井の水を加えるとお酒が腐らないといわれ、酒造家がよく持ちかえるそうです。



西芳寺(セイホウジ)

その松尾大社から、もう少し山の手に入った所に苔寺として知られます『西芳寺』がございます。

苔寺は、今からおよそ1300年程前の奈良時代行基というお坊さんがお開きになり、その後、荒廃していたのを夢窓国師(ムソウコクシ)が復興されたのです

広いお庭は、『ビロード苔』『たぬき苔』『万年苔』など120種余りの苔に包まれ、『苔寺』の名はここからつけられたそうです。

ところで『苔寺』は、すぐ近くに西芳寺川が流れていて、苔にはとてもよい環境ですが、それだけに水も出やすく、多くのお寺では何度も火災に見舞われているのに対し、こちらは、随分と水害に悩まされて参りました。

忘れた頃にやって来る水害で痛手を受け、現在の建物は『湘南亭

(ショウナンテイ)』を除いて、明治以降の作といわれています。

又、『湘南亭』は、明治維新の頃、岩倉具視(イワクラトモミ)が隠棲(インセイ)していた所と言われ、維新(イシン)の史跡として有名です。