茨木IC
茨木ICを通過致します。
茨木ICは、国道171号線と接続しております。
国道171号線は、昔の西国街道に沿って走っており、右手に参りますと明治の森箕面国定公園や箕面の滝で知られた箕面市へ起こしいただけます。
又、反対、左手に参りますと高槻方面に起こしいただけます。
ところで、茨木IC付近からは、弥生式土器が沢山発見されており、この辺りでは太古の昔から人々の生活が営まれていたことがわかっております。
茨木市
ただ今、進めている茨木市は大阪市の北方に位置する住宅と工業の都市で、人口約25万人、大阪市の衛生都市でございます。
この辺りは古くから開けた所で、古墳の宝庫と言われ、継体天皇陵を始め古墳の多いことで知られております。
戦国時代には、豊臣秀吉の重臣『片桐且元』が一時、茨木城に入り城下町として発展致しました。
且元が茨木を離れた後は、江戸幕府の天領となり宿場町、商業の町として栄えたのです。
現在では、交通網の発達により大阪市の近郊都市として住宅も増え、弱電気や食品の大手企業も進出し、工業都市としても発展しております。
又、市内には、継体天皇陵を始め郡山宿本陣や総持寺など見所の多い所として知られております。
継体天皇陵
継体天皇陵は、茨木市内の太田地区にございます。
周囲に濠をめぐらした前方後円墳で、全長226m、前方部の幅が147m、長さが117m、円部の高さが19mという大きなものです。
元禄年間に、第26代『継体天皇陵』とされたもので、原形がよく保存されております。
郡山宿本陣
ところで、京都の伏見と西宮を結ぶ西国街道の中程には、椿の本陣と呼ばれた『郡山宿本陣』がございます。
ここは、中国地方の諸大名達が参勤交代のおり、よく利用した所です。
皆様、よくご存知かと思いますが『本陣』とは、江戸時代の公家を始め大名や幕府の役人達のための旅館
のことでございます。
郡山宿本陣は、主に参勤交代や公用の旅の宿泊や休憩の時などに利用されておりました。
本陣の建物ですが、享保6年(1721)に再建されたもで、母屋二棟、土蔵三棟、茶室、納屋などが
当時のまま残っており、歴史的に貴重なものです。
又、この本陣が『椿の本陣』と呼ばれたのは、椿の木があって大変美しい花を咲かせる所から名付けられて
います。
歴史的に有名な、忠臣蔵の浅野匠之守は事件の前の年、元禄13年(1700)、播州赤穂から最後の参勤交代の時、ここに宿泊しております。又、浅野家断絶で、赤穂城受け取りの任務を帯びた脇坂淡路守もこの椿の本陣に泊まっております。
総持寺
又、茨木市の町中には、西国22番の札所として知られます総持寺がございます。
総持寺は、寛平2年(890)に藤原山蔭により開かれたお寺で、本尊は遣唐使が唐からもって来たビャクダンの木で作られた千手観音を祭っております。
特に、元亀2年(1571)に織田信長の茨木合戦で総持寺は焼けてしまったのですが、本尊の千手観音だけは焼け残ったということです。現在のお堂は、豊臣秀吉が慶長8年(1603)に片桐且元に命じて再建させたものです。
境内には、本堂を始め開山堂、薬師堂、太師堂、不動堂、経蔵などが落ち着いた佇まいを見せ、又、見上げるように壮大な門構えが、参詣者を圧倒するようでございます。
水子供養塔
皆様、前方ご覧下さいませ!
細長い塔がご覧いただけますが『水子供養塔』でございます。
昭和56年に建てられたもので、高さ73mほどあり、この名神高速道路を走っておりますと、よくにつく塔でございます。
茨木の慰霊塔
皆様、右手ご覧下さいませ!
銀色の丸い建物がご覧いただけますが『茨木の慰霊塔』でございます。
この塔は、笹川良一さんが敵味方の差別なく全世界の戦争犠牲者の霊を慰めるために建てたもので、ステンレスで出来ております。
又、笹川良一さんといえば、皆様、よくご存知の日本船舶協会の会長を努めておられましたが、平成7年に亡くなられております。
吹田JCT
車は、吹田JCTを通過致します。この吹田JCTは、名神高速道路と中国自動車道の分岐点になっております。
右手に参りますと、大阪空港の近くを通り宝塚から有馬温泉の玄関口、西宮北ICを経て山口県下関方面に起こしいただけます。
太陽の塔
皆様、右手ご覧下さいませ!
万博のシンボル『太陽の塔』がご覧いただけます。
太陽の塔と言えば、岡本太郎さんのデザインで作られたもので、万博以来、22年ぶりに工費2億8千万円を投じて改修工事が行われ、平成5年の春に完成しております。
岡本太郎
ところで、岡本太郎さんと言えば、戦後、日本の前衛美術の旗手として活躍し『芸術は爆発だ!』などの言葉やマルチタレントとしても親しまれていましたが、平成8年1月7日(午後3時32分)に急性呼吸不全のために東京都新宿区の慶応羲塾大学病院にて84歳の生涯を終えております。
岡本太郎さんは、漫画家の岡本一平さんと小説家の岡本かの子さんの長男として神奈川県川崎市で生まれ、
1929年に慶応大学を出たあと、東京美術学校(現在=東京芸大)に入学しましたが半年で退学しフランスに渡りました。その後、10余年
を過ごし、パリ大学で人類学や哲学などを学ぶ一方、美術に取り組み、シュールレアリスムの画風を築いております。
やがて帰国致しますと、兵役で中国戦線へ赴き、戦後、復員してからは批評家の花田清輝さんと共にグループ『夜の会』を結成し、野間宏さんなどをメンバーに加え日本独自の前衛芸術を切り開く運動を展開しております。
その後、絵画、彫刻、著述のほか、寺の梵鐘や東京オリンピックの記念メダルを制作し、又、1970年の万国博覧会においてはテーマ館のプロデューサーに就任するなどマルチタレントぶりを発揮し社会的な話題になっております。
岡本太郎さんの代表作としてパリ時代の『傷ましき腕』や戦後すぐの『優愁』などの絵画のほか、旧東京都庁1階ホールの『日の壁』などの壁画類、或いは、大阪万博のモニュメント『太陽の塔』などがございます。更に、著書にはベストセラーに
なりました『今日の芸術』や『日本再発見』『岡本太郎著作集』などもまとめられております。
ちなみに、1989年にはフランス政府から芸術文化勲章を受賞しております。
このような数々の活躍をされた岡本太郎さんは、71歳になる養女の敏子さんと二人暮らしをしていました
が、近年、パーキンソン病が進み、食が細くなり体重も35kにまで減ってはいたものの、亡くなる前日にはいつものようにワインの晩酌をしてとても元気だったそうです。しかし、当日、いつも通り昼寝をしている岡本さんを起こそうとした所、意識がもうろうとしており慶応羲塾
大学病院に運ばれたのですが、残念ながら亡くなられております。
養女の敏子さんは、岡本さんの突然の死に「まだ々仕事が出来たし、川崎市に計画中の『岡本太郎美術館』を見せてあげられなかったのが残念です」と涙で声を詰まらせていたとのことです。
万博記念公園
又、太陽の塔を始め遊園地のございます辺り一帯が昭和45年に開かれた日本万国博覧会の会場となった所
で、現在は万博記念公園として親し
まれております。
皆様の中にも、万国博をご覧になった方もいらっしゃると思いますが、日本中の話題となった万国博も早いもので、50年以上も前のことにな
ってしまいました。
昭和45年の3月15日から9月13日までの半年間に渡って開かれた、アジアで最初の日本万国博には77ケ国が参加致しました。
会場には、数多くのモダンなデザインのパビリオンが立ち並び、まことに華やかな雰囲気に包まれたのです
連日、大勢の見物のお客様がつめかけ、大変な賑わいが半年に渡って続きましたが、その総入場者数は6422万人にも達しました。
何回も見物した人も多いので、そうはいえないのですが、おおざっぱにいえば実に国民の5人に3人が見物した勘定となります。
日本万国博は、我国始まって以来、最大の行事となり、大変な成功を収めたのです。
その万国博の広大な跡地は、記念公園として残ることになったのです。
中国自動車道の両側に広がる公園は、総面積264平方キロメートルもあり、その広い園内には、万国博が行われていたときからお子様の人気を集めているエキスポランドを始め、万国博記念館、国立民族学博物館、国立国際美術館、日本民芸館
などの文化施設のほか日本庭園、野球場や各種スポーツ施設がございます。
この万博記念公園には、行楽にスポーツに、美術鑑賞に学習にと沢山の人々が訪れております。
大阪モノレール
これから大阪モノレールの軌道をくぐります。
大阪モノレールは南茨木駅から千里中央駅を経て大阪国際空港を結んでおります。平成2年6月1日に、南茨木駅から千里中央駅間の6,6kが開通、以来、工事が進められ平成6年に千里中央駅から大阪国際空港までの区間が平成5年に開通してお
ります。
このモノレールの工事ですが、昭和57年10月に施工認可を受け、同年11月から工事が始められ、約8年の歳月と費用が何と590億円もかかったそうですが、この辺りは自動車道や高速道などの上を通ったりと大変難工事であったといわれてい
ます。
ちなみに、このモノレール、地上20mの所を走っており、最高速度75kまで出せるそうです。
吹田市
ただ今、車は吹田市を進めております。吹田市と言えば、以前は、国鉄(現在はJR)の大操車場のある所
として知られておりましたが、現在
では万博が開かれた所といった方が通りがよいようです。
吹田市は、大阪市の北隣にあり、人口は約36万人ほどで、大阪市の衛星都市となっております。
又、吹田市の地形は、南部が平野、中部から北部が丘陵地となっており、南部の平野部は工業地帯となっ
ていて、特にビールの生産が盛んでございます。
一方、大正10年の阪急千里線の開通以来、市の中部は住宅地として開発されていき、吹田は次第に大阪のベットタウンとしての性格を強めて来ました。
そして、昭和33年に市の北部から豊中市にまたがる千里丘陵に、マンモス団地の千里ニュータウンが建設される様になりますと、他の地域でも宅地化が一層進み、吹田は住宅都市として急激な発展をしたのでございます。
吹田SA
千里山トンネル
これから千里山トンネルをくぐります。このトンネルの上には関西大学の校庭がございます。
関西大学といえば、明治19年に関西法律学校が設立され、明治37年に関西大学として発足しております。
ところで、関西大学といえば、昭和63年4月から昭和64年3月まで1年間、落語でおなじみの桂文珍さんが、週1回、月曜日に国文科の非常勤講師として活躍した所としても知られております。
阪急千里線
北大阪急行
南北線
千里ニュウタウン
右手一帯には、東京多摩ニュータウンに次いでマンモス団地として知られる千里ニュータウンがございます
千里ニュータウンは、吹田市北西部から豊中市北東部に広がる千里丘陵を開発して作られたもので、我が国
の大規模なニュータウン計画の先駆けとなったものです。
昭和33年に開発の手が加えられた当時の千里丘陵は、雑木林と竹林に覆われた自然郷でございました。
そこを切り開いて、総面積1200万平方メートル、戸数約4万戸の大団地が誕生したのです。
昭和45年には、大阪市内と結ぶ北大阪鉄道も開通し、大変、理想的な住宅地となっております。
豊中市
車は、豊中市を進めております。豊中市は、大阪の北に位置し、阪急電鉄で梅田とは10分から20分程で結ばれております。
豊中市は、人口約41万人程を数える大阪周辺でも、屈指の文教都市、住宅都市として、或いは、大阪市や尼崎市のベットタウンとして知られております。
近年は、大阪工業地帯の延長となっていて工場も多くなりましたが、一方、農業も大変盛んで花や果物の栽培が行われております。
市内には、萩の寺として知られる『東光院』を始め『服部緑地公園』や『日本民家集落博物館』などがございます。
東光院 P 参照
服部緑地 P 参照
公園
豊中IC
これから、大阪国際空港の玄関口、豊中ICを通過致します。
左手に参りますと豊中から大阪方面へ、反対、右手に参りますと大阪国際空港へ起こしいただけます。
大阪国際空港
大阪国際空港は、関西地方の空の玄関口として知られております。
この大阪国際空港は、池田市・豊中市と兵庫県伊丹市にまたがった所にあり、その敷地の大部分が伊丹市にかかっているため『伊丹空港』とも呼ばれています。
大阪国際空港は、3千メートルと1828メートルの2本の滑走路と、大規模なターミナルビルを持ち、千葉県成田の新東京国際空港に次いで日本第2位の国際旅行客数と国際貨物量を扱う空港でございます。
この大阪国際空港は昭和14年に、大阪第2飛行場として現在地に誕生し、戦後は米軍に接収されましたが、昭和27年に接収が解除されて民間空港となり、昭和34年に東京の羽田空港に次いで、日本で2番目の国際空港となったのです。
その後は、航空機客の飛躍的増加と共に、西日本最大の空港として大いに発展して来ました。
けれども、大阪国際空港は人口密集地帯にありますので、騒音公害などの問題をかかえており、大阪湾の泉州沖に建設された関西国際空港に、国際空港としての機能を譲りました
泉州沖に建設された関西国際空港ですが、1兆5000億円という巨額な費用を投じ、平成6年9月4日に完成しております。
猪名川
これから猪名川を渡ります。この川を境に大阪府から兵庫県に入ります。
広済寺
この街道からはご覧いただけませんが、右手奥には『近松寺』として親しまれている『広済寺』がございます。
ここは近松門左衛門のお墓のある寺として知られており、天徳3年(959)に多田満仲が建立しておりま
す。
その後、お寺は荒れてしまいましたが、江戸時代の正徳3年(1714)に日昌が再興しております。
近松門左衛門と日昌は大変に親しい友人で、門左衛門は享保9年(1724)に大阪で亡くなりましたが、大阪の妙法寺とこの広済寺の二ケ所
にお墓が作られたのです。
毎年11月22日には、近松祭が開かれ江戸時代の浄瑠璃と歌舞伎作家を偲んでおります。
又、お寺の隣には近松記念館があり、門左衛門の遺品などが展示してあります。
尼崎IC
車は、尼崎ICを通過致します。
尼崎ICは、阪神工業地帯の玄関口にあたり、大工業地帯で生産される商品や、使用される原材料の流通の上で大変大きな役割を担っております。
尼崎市
ただ今、車は尼崎市を進めておりますが、尼崎市は、関東地方で例えるなら、大阪が東京、神戸が横浜とすれば、尼崎は川崎に似ているのではないとかいわれます。
尼崎市は、大阪湾沿岸に展開している阪神工業地帯の真ん中にあり、日本の都市の中でも最も工業都市らしい都市と申せましょう。
現在の尼崎からは想像も出来ないかと思いますが、江戸時代には戸田氏5万石の城下町だったところです。
人口は約52万人程を数え、神戸に次いで兵庫県大2位となっております。
寺町
又、工業一色のように見えるこの尼崎市にも、京都を思わせるようにお寺の集まった一角があり、そこだけが昔の面影を残す落ち着いた雰囲気をかもし出しております。
これは元和年間(1615~1624)に戸田氏鉄が尼崎城を築く時に、立ちのぞかれたお寺が集められ
たのてす。
本興寺を始め長遠寺、広徳寺、大覚寺、法園寺などの寺々がございます。
武庫川
車は、武庫川を渡ります。この川を境に尼崎市から西宮市に入ります。
西宮球場
右手に、球場が見えて来ましたがパシフィク・リーグのオリックスブルーウェイブのホームグランド西宮球場でございます。
収容人員は、後楽園球場と同じ位の約5万人という大きな球場です。プロ野球の他、競輪場として、又、冬場には、アメリカンフットボールの試合等に利用されております。
西宮市
ただ今、車は西宮市を進めております。
西宮市は、人口約41万人程で、兵庫県下では神戸市、尼崎市、姫路市に次いで第4位の人口を擁しております。
西宮といえば、アルコールのお好きな方なら『灘の生一本』を思い浮かべられることと思います。
灘のお酒は、ここ西宮と神戸で生産されているお酒のことで、六甲山からの地下水が大変よい水で、これを宮水と呼んでおりますが、この宮水がおいしいお酒を作るもとになっているのでこざいます。
灘五郷といって灘には五つの酒どころがございますが、その中の西宮郷と今津郷の二つが西宮に、残りの三つが神戸にございます。
又、西宮は名前から察せられるかと存じますが、西宮神社の門前町として発展し、江戸時代に入って宮水が発見されると、清酒の産地として大きくクローズアップされて来ました。
更に、鉄道交通が整備されるようになってからは阪神間の快適な住宅地域として発展して来ました。
西宮市は、大きく分けて三つの地域に分けられます。南部の海岸に近い所は酒造りを中心とする工業、それより内陸が住宅が住宅地域、中央より北は山地になっており、リクリェーション地帯となっております。
その他、西宮市のもととなった西宮神社や門戸厄神など庶民の信仰を集める社寺や、多くの自然いっぱいの公園などバラエティーに富み、海と山の風光のよい恵まれた環境の都市でございます。