長良川  

これから長良川(ながらがわ)を渡ります。

長良川といえば、五木ひろしさんの長良川艶歌でより一層(いっそう)有名になりましたが大日ヶ岳(だいにちがたけ=標高1709m)に源(みなもと)を発(はっ)し、スキーのメッカ北濃(ほくのう)から郡上踊りで知られます、郡上八幡(ぐじょうはちまん)そして、金華山(きんかざん)の麓(ふもと)をうるおしながら、流れ流れて166k、左手、下流で揖斐川(いびがわ)と合流し伊勢湾へ注いでおります。

長良川は、木曾川、揖斐川と共に木曽三川 (きそさんせん)の一つに数えられ、鵜飼(ウカ)いで有名です。

鵜飼いは、長良川の代名詞の様になっておりますが、夕闇(ゆうやみ)に包(つつ)まれた金華山(きんかざん)を背景に『ホーホー』と鵜を励す鵜匠(うしょう)の声、舟(ふな)ばたをたたく音、清流(せいりゅう)に映(は)える、かがり火(び)など、とても情緒豊かで、毎年、沢山(たくさん)のお客様で賑わいを見せ、毎年5月11日から10月15日まで満月の夜と雨の降った後、水の洪水時を除いて毎晩行われております


※参考  


※参考 

木曾三川=木曾川、長良川、揖斐川(いびがわ)の三つの川を木曾三川といい、木曽三川を一望(いちぼう)できる中央水郷(すいごう)地区の中心に展望タワー『ツインアーチ138(いちさんはち=若しくは(1=いち)の(3=み)や(8=や)ともいいます』が建てられております。

木曽三川(きそさんせん)公園は、

岐阜、三重の三県にまたがる日本一広い国営公園でございます。

      



※参考  

金華山は、一宮JCTの辺りから、右手、前方、二時位の方向に見えて来ていると思います

  

    



岐阜城                    

金華山

長良川を渡っている時に、

皆様、右手横、時計の短針(たんしん)が三時位〔車の進み具合により,少し右後ろ四時位になってしまう

こともあります〕の方向をご覧くださいませ!

ロープウェイのございます山が、金華山(きんかざん=標高329m)山の上に岐阜城がご覧いただけます。

岐阜城は、もとは稲葉山城(いなばやまじょう)と呼ばれ、斎藤道三(さいとうどうさん)が築き、後、三英傑(さんえいけつ=織田信長、徳川家康、豊臣秀吉)の一人、織田信長の城で知られております。

『美濃を制(せい)するものは天下を制(せい)す』という言葉がございますが、この言葉は斎藤道三(さいとうどうさん)が話したもので、小説家、司馬遼太郎(しばりょうたろう)が「国盗り物語=くにとりものがたり」の中で紹介し有名になりました。 

※信長が『美濃を制する…』といった所説もありますが、斎藤道三が先に、美濃をおさめているから


参考 金華山の麓


#常在寺=ジョウザイジ

金華山の麓、岐阜大仏の近くには、岐阜の礎(いしずえ)を築いた斎藤道三(さいとうどうさん)の菩提寺(ぼだいじ)常在寺(じょうざいじ)がございます。

斎藤道三と父 長井 新左エ門尉(ながい しんざえもんのじょう=京都からやって来た商人)の二代にわたり美濃国(みののくに)を制するために拠点とした所です。

常在寺は、日蓮宗京都妙覚寺の旧末寺(にちれんしゅうきょうとみょうかくじのきゅうまつじ)のお寺で、正式名称は鷲林寺常在寺(じゅりんざんじょうざいじ)と言います。

1450年宝徳(ほうとく)2年、土岐家守護代(ときけ しゅごだい)として権力を持ち、当時、美濃を支配しておりました斎藤妙椿(さいとう みょうちん)が建立し、後、道三をはじめ義龍(よしたつ)、龍興(たつおき)、三代の菩提寺(ぼだいじ)になっています。

常在寺は、十界曼荼羅(じっかいまんだら)をご本尊としております。

ご本尊は、直接、お寺に確認してあります。


毎年、4月の第一土曜日には道三公祭りにあわせて『斎藤道三公追悼式(さいとうどうさんこう ついとうしき)行われ、お祭りの二日間は無料開放されております。


道三の辞世の句(ジセイノク)

また、斎藤道三の辞世の句に

『捨ててだに  この世のほかは なきものを いづくか終(ツイ)の 住(スミ)み家(ヵ)なりけん』と言う、言葉が残されております。


参考  

斎藤道三の歴史については色々あります「油売りから出世した美濃のマムシと恐れられた大名としてなど…もし、よろしければ興味のございます方は調べて見て下さいね



#岐阜大仏と岐阜城

#伊奈波神社


#金(コガネ)神社  


#岐阜善光寺(ゼンコウジ)


#長良川うかいミュージアム


#白川郷(シラカワゴウ) 


#飛騨高山(ヒダタカヤマ)


#真籠宿(マゴメジュク)


#養老の滝



岐阜の市街地  

皆様、金華山の麓(ふもと)をご覧下さいませ!

ビル街が見えておりますが、岐阜駅周辺の街並みでございます。

金華山のすぐ麓、一番高いビルが、岐阜シティータワー43(高さ162,82m)近くに『ライオンズ岐阜プレミストタワー35(高さ132,64m)』『岐阜イーストライジング24(高さ95,16m)』『柳ケ瀬グラッスル35』(高さ132,64m)などがご覧いただけます


柳ケ瀬グラッスル35は、令和5年3月5日に完成しました。

1階から2階の商業施設には、飲食店、ドラッグストアなど15店舗が入り、3階から4階には市の健康運動施設が、そして5階以上が分譲マンションとなっています。 


ちなみに、岐阜といったら昔の歌で

美川憲一さん(長野諏訪出身)の『柳ヶ瀬ブルース』や五木ひろしさん(福井県三方郡ミカタグン出身)の『長良川艶歌』などの歌謡曲で有名になりました。


また、岐阜市は俳優伊藤英明さんや2000年シドニーオリンピック金メダリストの高橋尚子さんの出身地としてもお馴染みです。

女子マラソンの元世界記録保持者どして

更に女子スポーツ界で初の国民栄誉賞を受賞した方です。(愛称はQちゃん)


最近では『令和4年11月6日に行われました『ぎふ信長まつり』(正式には岐阜市産業・農業祭~ぎふ信長まつ)で話題を呼んでおります。

『ぎふ信長まつり』では俳優のキムタクこと、木村拓哉さんが織田信長役を伊藤英明さんが濃姫(のうひめ)の侍従(じじゅう)福富平太郎貞家(ふくとみ へいたろうさだいえ)役を演じ、信長の『皆のもの出陣じゃ』の掛け声のもと、大行列が行われ、岐阜市の人口を上回る46万人の人出で賑わったのでございます。

※岐阜市人口40万 令和5年1月

又『柳ヶ瀬ブルース』を歌いました美川憲一さん()と言えば『おだまり』『この泥棒猫』『聞いてないわよお~』などの名言でおなじみですが、今回の、締めくくりは『ごめんあそばせ!』でしょうか?  



輪之内町  

長良川を渡り、右手が安八郡安八町(あんぱちちょう)、左手が輪之内町(わのうちちょう)でございます

こちら安八町と輪之内町は共に、長良川と揖斐川の二つの大きな川の間に挟まれた、大変低い土地柄で、輪中(わじゅう)が所々でご覧いただけます。

この輪中とは、その土地が近くを流れる川の高さよりも低いために、土地を堤防で囲み水害に備えて、堤防が輪の様に囲んでいる所から生まれ

た言葉です。

家は、盛土(もりつち)をして石垣で囲んだ所に建て、その家よりも一段高い所に『水屋(みずや)』と呼ばれる二階建ての避難用の納屋(

なや)を設けており、ここに食料品などを保存して、洪水が出た時には二階で水が引くまで避難するそうです。

      

揖斐川(イビガワ)  

揖斐川を渡ります。この揖斐川は、岐阜と福井県の県境、高倉峠に発し揖斐峡の景勝や秋の味覚、鮎の簗場(やなば)を作り、根尾(ねお)川

牧田(まきた)川など合わせて伊勢湾に注ぐ延長114kの川です。

      


大垣IC  

大垣(おおがき)ICを通過致します。

このICは、R258大桑(だいそう)国道に連絡しており、左手に参りますと養老から南濃(なんのう)を経て、しぐれ蛤でおなじみの三重県桑名(くわな)方面に、又、反対右手に10分程参りますと、水の都大垣から岐阜へ連絡しております。

この『大桑国道』という名前は、大垣と桑名の頭文字をとって名付けられております。



大垣市  

ところで、大垣は岐阜市に次いで県下第2の都市で、明治維新までの240年間、戸田氏10万石の城下町として栄えた所です。

※人口15900 令和5年2月

大垣は昔、牛屋(うしや)村と呼ばれておりましたが、天文(てんぶん)年間にお城が築かれますと、大井の庄となりさらに大垣と名が改められました。

この大垣という名ですが、お城の廻りに大きな石垣が用いてあったからとか、又、この近くは富豊(ふゆう)柿という大きな柿の産地だった所から大垣と名前が付けられております。

現在、大垣市は近くに揖斐川、長良川、木曽川と三川(さんせん)が流れ、又、地下水がとても豊富な所から『水の都』とも呼ばれ、紡績工場や化学機械工業が盛んに進出し発展して来たのです。





大垣城   

又、こちら大垣の町中(まちなか)には、シンボルの大垣城がありますが、こちらのお城は珍しく四層(よんそう)になっております。

四層の『四』は死相(しそう)に通じるとのことで、武将達は縁起をかついでさけたため、記録には三層と記されております。

城内は、郷土資料館となっていて、関ヶ原合戦の鉄砲、槍などの武器が展示されております。

慶長五年、関ヶ原合戦の時には、石田三成が大垣城に西軍の拠点を置き、約、一か月間、徳川家康の東軍とにらみ合いますが、城閣攻撃の不得意な家康は、何とか大垣城から西軍を離れさせ、有利な野戦に持ち込もうとして、三成の居城『佐和山=サワヤマ』を攻撃しようと見せかけたのでございます

これを見た西軍は、敵の計画とも知らず関ヶ原合戦前夜、降りしきる雨の中、大垣を離れ関ヶ原に向かい、そこで大合戦となりました。

もし、西軍が大垣にとどまっていたら勝敗もどうなっていたかわかりません。

この時、大垣のお坊さんが家康に敬意(けいい)を表すために名産の大きな柿を献上したところ、家康は、『大垣(大柿=大きな柿)手に入る』と大層と喜ばれたという話が残されております。

こうした関ヶ原の戦いの、一舞台となった大垣城も昭和20年の戦災で惜しくも焼けてしまい、昭和34年に再建されております。


山並みと金生山 

皆様、前方ご覧下さいませ!

左手の方からなだらかに続いておりますのが、養老山地、そして正面、ひときわ高い山が日本七高山(しちこうざん)の一つとして知られます伊吹山、その手前、象の鼻の様な感じの山が象鼻山(ぞうびやま)が、ご覧いただけます。

又、右手奥、山肌が見えている山は、赤坂の金生山(きんしょうざん=かなぶやま)でございます。

山全体が石灰岩からなっていて、この山から石灰岩や大理石が沢山とれていましたが、今では石灰の山になっています。

又、この山の上には赤坂の虚空蔵さんと呼び親しまれています『明星輪寺=みょうせいりんじ』があり、付近の人々の信仰を集めております。 


揖斐川町(イビガワチョウ)  

右手、奥、入った所に、国歌「さざれ石」で知られました揖斐川町がございます。

{近くに、垂井町(たるいちょう、神戸町(ごうどちょう)、北方町(きたがたちょう)、池田町、大野原町、瑞穂市(みずほし)などの町があります}


養老SA  

皆様、お疲れ様でございました。

養老SAに到着致します。こちら○時○分出発ですので時間までには車にお戻り下さいませ!


出発したら!

皆様、お帰りなさいませ!

それでは、養老のSAを後に○○まで進めて参ります!

      

象鼻山(ぞうびやま)   

皆様、右手ご覧下さいませ!すぐ近くに象鼻山がご覧いただけますが、この山の向こう側には南宮山(なんぐうさん)があり、その麓には美濃国一之宮『南宮大社』(なんぐうたいしゃ)がございます。

ご祭神は、金山彦命(かなやまひこのみこと)で鉄、金など金属工業の神様として知られております。 

どうぞよろしければ、車中から手を合わせて下さいませ!

車中参拝ですと、足も疲れません、お腹もすきません、お賽銭も入りません、ご遠慮なく車中参拝して下さいね!  


牧田川(マキタガワ)  

それでは今度、左手をご覧下さいませ!

清らかな流れは、牧田(まきた)川でございます。

この辺りは、山や民家、田畑と、とり合わせも美しく、箱庭の様な感じがいたします。

この川の上流には、キャンプで同じみの多良渓谷があり、季節には沢山のお客様で賑わいを見せております


養老の滝 高さ30m




養老山地(ヨウロウサンチ) 

また、皆様の左手には養老山地がご覧いただけますが、この養老山地は岐阜県と三重県にまたがっていて南は多度山から北は養老山までの一帯を養老山地と呼んでおります。

こちら、岐阜県側には孝子(こうし)伝説で名高い、養老の滝を始めとしました養老公園があり、また三重県側には雨乞いの神様をお祭りする多度大社(たどたいしゃ)などがございます。


養老の滝  

ところで、養老の滝は、高さ30mと余り高くはございませんが、滝のほとりは夏でも汗を知らないぐらい涼しく、俳聖芭蕉(はいせい ばしょう)も

『むすぶより はや歯にひびく 泉かな』と呼んでおります。

と呼んでおります。

この養老の滝を中心とした養老公園は、春は桜、夏はキャンプ、秋は紅葉が美しく、冬は雪景色と四季を通じて賑わいを見せる所で近年は、ようろう瓢箪(ひょうたん)で話題を呼んでおります。

    

孝子源之丞内(コウシゲンノジョウナイ)の伝説

それでは、この辺りで『養老の滝』にちなみました孝子伝説を紹介して参ります。

『飲めや唄えや世の中は、酒だ酒だよひょうたんブギ どうせ飲むなら養老の滝を飲んで見たいよ

腹一杯、滝がお酒になったなら』と昔も今も春日八郎さんの唄でお馴染みですが、その昔、美濃(ミノ)の国に貧しくて、身分の低い男が父親と住んでおりました

親子は、まきを拾いそれを売っては生活費に当てていたのでございます。

ある日のこと、息子が山に入りまきを拾っておりました所、どこからともなくお酒の臭いが致して参りました。

不思議に思って、あたりを見回しますと、岩の間より水が流れでており早速、汲んでみますと何とお酒ではございませんか!

喜んだ息子は、このお酒で後々(ノチノチ)まで父親を養ったということです

『流れては 世にも名高く聞こえけり 老(オイ)を養(ヤシナ)う 滝のびひきは』

と歌にも詠まれ、又、この様な伝説から老を養う『養老の滝』と名付けられています。 


段違い道路 

右手、ご覧下さいませ! 上り線の方が高くなっておりますが、段違い道路でございます。

この辺り大変傾斜のきつい所で、上り線と下り線に段差が設けてございますが、こうすることによって工事もスムーズに行われたそうです。

      

揖斐川町(イビガワチョウ) 

右手奥には国歌『さざれ石』の歌で紹介されております『さざれ石公園』がございます。


参考

さざれ石  

国歌「君が代」に詠まれているさざれ石は、日本の七高山(シチコウザン)、伊吹山(イブキヤマ)のふもとにあり、学名を石灰質角礫岩(セッカイガンシツカクレキガン)と言います。これは石灰石が長い年月の間に雨水で溶解(ヨウカイ)され、そのとき生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝固して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出し、苔むしたたものです。


伊吹山(イブキヤマ)  

皆様、前方ご覧下さいませ!

先程、遠くに見えておりました伊吹山がすぐ間近にご覧いただけます。

日本七高山(ニホンシチコウザン)の一つ、伊吹山は、岐阜県と滋賀県にまたがる海抜1377mの山で、昔は『近江(オウミ)の伊吹』とも『美濃(ミノ)の伊吹』とも言われ、はっきりとしておりませんでしたが、現在では頂上が滋賀県、東北の斜面が岐阜県に所在しております。

この伊吹山は、山頂まで延長17kのドライブウェイが通じており、眼下には濃尾(ノウビ)平野、鈴鹿山脈、養老山地、伊勢湾を始め、北の方には雄大なアルプスの山並、又、西の方には琵琶湖と控えており日曜日、祝日ともなりますと、たくさんのマイカーで賑わいを見せております。


関ヶ原IC

それでは、この先、間もなくで関ヶ原のICを通過して参ります。

この関ヶ原ICは、国道21号線と連絡致しており、近くには関ヶ原のウォーランド、鍾乳洞、遊園地でおなじみのメナードランド、国際スケ

ート場、伊吹山ドライブウェイとひかえ、一日御家族連れで、ごゆっくりとお楽しみいただける所です。

こちら関ヶ原町は、岐阜県の西の端にあり、伊吹山と鈴鹿山脈を控えた山間の静かな町で、古くは、中仙道の宿駅として、又、北国街道、伊勢街道を分岐する交通の要衝として発展してきた所です。

この地では、かって壬申の乱や関ヶ原合戦が行われ、又、越前愛発の関、三重の鈴鹿の関とともに日本三関の一つ不破の関が置かれたこともあり、町の至る所に史跡が残されております。


関ヶ原合戦 

それでは、この辺りで歴史に一頁を残しました関ヶ原合戦についてしばらく、昔を忍んで見たいと思います

関ヶ原合戦は、天下分け目の合戦として有名で、当時、政治の実権を握りつつございました徳川家康と、石田三成をリーダーとする西軍とが一戦を交えた戦いでございました。

時に慶長5年(1600年)9月15日、ここ関ヶ原で火ぶたが切られたのでございます。

当日、午前8時からおよそ7時間、両軍合わせて10数万という兵士が争ったのですが、戦いは一進一退でなかなか決まりませんでした。

とくに午前中は、三成の率いる西軍が断然優先でしたが、結局、小早川秀秋の裏切りによって、西軍 石田三成は空しく破れ、徳川方の大勝利となったのです。

豊臣秀吉が伏見城で亡くなって僅か2年、豊臣にかわって天下を取りました家康は、江戸文化と徳川300年の太平の礎(もと)を築いたのでございます。


今須(イマス)トンネル    

それでは、これから今須トンネルをくぐります。




      

妙応寺(ミョウオウジ) 

皆様、右手ご覧下さいませ!

学校が見えておりますが、その学校の右手後の大きなお寺の屋根は、今須の妙応寺でございます。

このお寺は、延文(エンブン)5年(1360年)に、この地を治めていた長江重影(ナガエシゲカゲ)が、母

妙応尼(ミョウオウニ)の菩提を弔うために建てた物でございます。

重影の母は、非常に利口(リコウ)な人でその上欲が深く農民を利用しては私服を肥(コ)やしておりました

例えば、農民から一升(イッショウ)のお米を買うならば一升三合三勺(イッショウ サンゴウ サンシャク)の升(マス)で買い、また反対に一升のお米を売るならば七合七勺の升で一升と偽(イツワ)って売り、私服(シフク)を肥(コ)やしていたそうです。

そこで重影は、母親が亡くなった時に、母親の悪業(アクギョウ)をはらうために、又、菩提(ボダイ)を弔(トムラ)うために、この妙応寺を建てたのでございます。

現在、このお寺には『一升三合三勺の升』と『七合七勺(ナナゴウ ナナシャク)の升』が、寺宝(ジホウ)として残されております。

又、今須の地名はこの異なった二つの升『異升=イマス』から起こった物でございます。    

       

関ヶ原トンネル

正面に、関ヶ原トンネルが見えて参りました。

このトンネルをくぐりますと、岐阜県から滋賀県に入ります。

      

米原市柏原(マイバラシ カシワバラ)

関ヶ原トンネルを後に、米原市柏原を進めております。

昔は、中仙道(ナカセンドウ)の宿場町(シュクバマチ)として賑わい当時は伊吹山、特産の伊吹も草の店が軒(ノキ)を並べておりました。

今では『亀屋左京=カメヤサキョウ』という伊吹も草を売る老舗(シニセ)があり、昔の面影を残しております。

この伊吹も草は、 

『かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを』

と百人一首(ヒャクニンイッシュ)の藤原実方(フジワラノ サネカタ)の歌にも詠まれております。

この歌の意味ですが

『これほど思っているとさえ、言うことも出来ないのですから、私の燃える思いを よもやそれほどとは、あなたは知らないことでしょう』

と、こんな意味になるそうです。 

この歌の中に出てくる『さしも草』がお灸(キュウ)に使う『よもぎ』のことにあたり、江戸時代『よもぎ』を扱いっ

ていた近江国(オウミノクニ)、柏原(カシワバラ)の亀屋十兵衛(カメヤジュウベエ)という人が江戸の吉原(ヨシワラ)で

『江州(ゴウシュウ)柏原伊吹のふもと

  亀屋左京(サキョウ)の切りもぐさ』

という歌を流行(リュウコウ)させ有名になったそうです。

十兵衛さんは、江戸の吉原に入り浸(ビタ)りで随分、派手にお金を使って芸者さん達に歌わせ、それを聞いたお客が『伊吹も草』を求める様になり、どんどん広まっていったそうです。

又、十兵衛さんは頭の良い方で遊びに使ったお金はシッカリと回収して商売も大繁盛(ダイハンジョウ)したという事です。

柏原には、江戸時代、十数軒もございました『伊吹も草』の店も、今では十兵衛さんの『亀屋』だけになってしまいました。

この亀屋は、店構えも昔ながらの風情(フゼイ)で、大きな看板をあげております。

店主は、九州松浦氏の流れをくみ、裏手の屋敷には品のよい小庭(コニワ)があり、又、年代を経た所蔵品も多く残されているそうです。

※こちらは、前もって連絡をすれば見学も出来るそうですので、又、皆様方も機会がございましたら一度お訪ね下さいませ。

 

紅唐(ベニガラ)の話  

皆様、この辺りの民家をご覧下さいませ!

柱が赤く塗ってあるのが目にとまると思いますがこれは滋賀県特有の『紅唐』でございます。

この『紅唐』には数々の伝説が残されております。

その昔、彦根のお殿様、井伊直政(いいなおまさ)は大変力のある殿様で、戦いの度ごとに手柄をたてたそうですが、戦いの時には、朱塗(シュヌリ)りの旗(ハタ)、鎧兜(ヨロイカブト)を使い『勇気あるお殿様だ』と人々から敬(ウヤマ)われたそうです

以来、殿様のしきたりとばかりに家々の柱も赤く塗ったといわれます。

又、一説には近江商人(オウミショウニン)が商売上手でたくさんのお金を残し、次々と家を建てました。

ところが、家が新しいと年貢米(ネングマイ)をたくさん取られるため、新しい家と古い家との見分けがつかない様にしたとも伝えられております。

現在では、虫よけやくさるのを防ぐために赤く塗っているとのことです。


加茂(カモ)神社  

右手、ご覧下さいませ!

道路のすぐそばに、小さな岩山(イワヤマ)がご覧いただけますが、こちらには加茂神社が祭られております。

境内には、清らかな泉が涌き出ており、醒ケ井(サメガイ)の地名の由来となっている『居醒(いざめ)の清水』がございます。

また、加茂神社には、大己貴命(オオナムチノミコト)少彦名命(スクナヒコノミコト)をお祭りしています。




参考

大己貴命は、日本の国土の開拓と国造りに功績を残した神様

少彦名命は、大己貴命とともに国造りに携わった神様


宗谷川(ソウヤガワ) 

それでは、皆様、今度、左手防音壁が切れた所で、左後振り返ってご覧下さいませ!

川の流れがございますが、宗谷川でございます。

※はい、左後ご覧下さいませ! 

この川に沿いながら10分程参りました所に、滋賀県営の醒ケ井養鱒場がございます。

この宗谷川の水を利用して、60個程の養魚池(ヨウギョイケ)があり、鱒が養殖されております。

昭和27年秋には、今は亡き昭和天皇がこの地にお見えになり

「谷影に 残るもみじ葉 美しも

紅鱒(ベニマス)おどる 醒ケ井の里」

とお詠みになっております。


米原JC(マイバラ ジャンクション)

これから、北陸路(ホクリクジ)の玄関口『米原JC』を通過して参ります。

この北陸道を進めて参りますと、皆様方ご存じの『山代=ヤマシロ』『山中=ヤマナカ』『片山津=カタヤマヅ』『粟津=アワヅ』など北陸四温泉と控えながら、加賀百万石のお城下町金沢から、田中角栄さんの生まれ故郷、新潟方面に連絡しております。

ところで、JCとは高速道路と高速道路のつなぎ目という意味にあたるそうです。


蓮華寺(レンゲジ)   

それでは、JCを通過致して参りますが、この先左手防音壁の向こう側をご覧下さいませ!

お寺がご覧いただけますが、蓮華寺でございます

※はい、左手ご覧下さいませ!

また、反対、右手防音壁が続いておりますが、その向こう側には番場(バンバ)の忠太郎(チュウタロウ)さんの生まれ故郷『番場の宿(シュク)』がございます。

まず、蓮華寺は、聖徳太子がお開きになったお寺で、始めは奈良の法隆寺と同じ名前でしたが、ここの地形が植物の蓮華の葉の形に似ている所から名付けられています。

また、こちらの境内(ケイダイ)には長谷川伸(ハセガワシン)の名作『瞼の母=マブタノハハ』でおなじみ番場の忠太郎の地蔵尊がございます。

この地蔵尊は、芸能人などの寄進で作られたものです。


※ところで、元弘3年(1333年)ここで大変悲劇的なことが起こりました。 

この年に、鎌倉幕府は滅びたのですが、このお寺は鎌倉幕府にとって悲しい舞台の一つになったのでした。

隠岐(オキ)の島に流されていた御醍醐(ゴダイゴ)天皇が、隠岐を脱出して、鎌倉幕府打倒(ダトウ)の兵をあげました

その時、京都の幕府の根拠地であった六波羅(ロクハラ)も攻撃を受け、この戦いに敗れた六波羅探題(タンダイ)の北条仲時(ホウジョウナカトキ)は鎌倉へ逃れる為、中仙道をここ番場宿までやって参りましたが、京極尊氏(キョウゴクタカウジ)に行く手を阻(ハバ)まれ、432名の部下と共に、この蓮華寺で自害してしまったのです。

現在、寺の裏山には『五輪の石塔』の墓があり、今なお哀れをそそっております。


番場の宿(バンバノシュク) 

ところで、先程、右手には番場の宿がございましたが、今もなお旧中仙道(ナカセンドウ)に沿って、茅葺(カヤブ)きの家がございます。

こちらが映画やお芝居、講談(コウダン)などでおなじみ長谷川伸名作『瞼の母』の主人公『忠太郎』の生まれ故郷(コキョウ)『番場』でございます。

忠太郎は、幼い頃、母親と生き別れになってしまい、やくざ渡世(トセイ)の道を歩みながらも、こつこつとためた百両のお金を持ち、母恋しさのあまり江戸へ出て参りましたが、ようやく捜し当てた母親は料亭水熊屋(リョウテイ ミズクマヤ)の女将(オカミ)となっておりました。

母親は、我が子と知りながら父親の違う娘に気を使い、ついに偽の忠太郎だと言って追い返してしまうのです。

忠太郎は、夢にまで見た瞼の母に会わぬ昔が懐かしく、寂しく去って行くのでした。

こうした主人公の母を慕う面影は、感傷の涙をそそるものがございますが、その番場の宿がこのような所にあるということを知っていらっしゃる方は、案外少ないのではないでしょうか?



参考

百両を現代の物価で換算すると1両は約12~13万円位といわれ百両は約13万円×100=1,300万円となります。


参考

中山道とは

中山道とは、江戸時代の五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道です。

江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれました。

中山道は、東海道に次ぐ江戸・京都間の重要な街道であり、参勤交代や旅客、物資の輸送に利用されました。

また、善光寺参りや御嶽山参り、伊勢参りなどの参拝ルートとしても栄えました。

中山道は、江戸時代の日本を代表する街道であり、その歴史や文化は現代にも受け継がれています。

中山道の目的

中山道の目的は、大きく分けて以下の2つが挙げられます。

  • 参勤交代や旅客、物資の輸送

  • 参拝ルート

参勤交代とは、江戸時代の武士が江戸と領地を往復する制度です。中山道は、参勤交代で利用する武士やその家族、荷物を運ぶための重要な街道でした。

また、中山道は、旅客や物資の輸送にも利用されました。江戸時代の日本は、経済の発展により物資の輸送量が増加し、中山道は重要な物流路としての役割を果たしました。

さらに、中山道は、善光寺参りや御嶽山参り、伊勢参りなどの参拝ルートとしても栄えました。中山道は、信仰の拠点であるこれらの神社仏閣を結ぶ重要な道として、多くの人々が利用しました。

中山道の歴史

中山道は、古代の官道である東山道を基盤として、江戸時代初期に整備されました。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦において天下をとった徳川家康は、天下統一を図る重要な手段として、戦乱で荒れ果てた全国の「道」の整備に取り掛かりました。

中山道は、江戸時代を通じて重要な街道として利用され、多くの人々の生活や文化に影響を与えました。

中山道の現在

中山道は、現在も多くの人々に親しまれる街道です。

中山道の宿場町や史跡は、国の重要文化財や史跡に指定されており、多くの観光客が訪れています。また、中山道を歩くためのウォーキングイベントなども開催されています。

中山道は、江戸時代の日本を代表する街道であり、その歴史や文化は現代にも受け継がれています。

飛騨高山