1964年東京オリンピック時の渇水=『オリンピック渇水』についての続きです。


多摩川水系の淀橋浄水場の上水供給は限界に達し、1960年から62年にかけて平均降雨量が平年の半分以下になる異常気象で多摩川水系の長期渇水が続いたこともあいまって東京の大規模な水不足は慢性化しました。

都は1961年10月から20%の制限給水を開始し、1962年7月には35%の制限給水に強化され、22時〜翌日朝5時および10時〜16時は蛇口から水が出ないという状態になり、工業用水を利用する製造業も打撃を受けました。


水不足対策として江戸川取水の金町浄水場が拡張されていましたが到底足りず、流域面積が広い利根川を東京の新たな主要水源とするべく武蔵水路で利根川と荒川を結び導水するなどの大規模な水資源開発に取り掛かりました。


あの武蔵水路が単なる農業用水でなかったとは驚きでした。 


利根川を東京の新たな主要水源と決めても、急場は凌がねばならず、荒川から取水できるように1963年11月に秋ヶ瀬取水堰と朝霞水路の拡張に着手、1964年には中川の余剰水を江戸川へ導水する事業も相次いで行われました。 (つづく)