昨年2月8日の新聞記事の抜粋です。精神科医であり、作詞家でもある、きたやまおさむ氏のインタビュー記事<現代人を苦しめる「裏の喪失」>から、抜粋してみました。

北山は30歳までに2度、目の手術を受け、長時間本を読めるようになったことで、研究に弾みがついた。(中略)代表的な研究のひとつに「見るなの禁止」をめぐる考察がある。「夕鶴」のように、世界の神話や伝承には、「見てはいけない」タブーを破ったため、現世から立ち去らなくてはならなくなるタイプの物語が多くある。

医者であり作詞家の自分は、鶴であり人間である「夕鶴」の「つう」なのだと、北山は言う。人はみなこうした二項対立を抱え生きている。意識と無意識、言語と非言語、本音と建前、表と裏、舞台と楽屋・・・。自身の体験も踏まえ、両者の折り合いをどうつけるのかというテーマを一貫して追究してきた、と振り返る。「この二つは決して混じり合わない。互いに橋がかかるだけ。精神分析家は、そこに橋渡しする役割なのです。」(中略)

「人間は誰でも学校や会社には行きたくない。常に逃げ出したい、死にたいと思っている。そうした思いを抑圧して、何とか生きている。それがうまく処理できない時、悲劇が起きる。」と語る。「本音を言葉で吐き出せる場所や、そのための人との関係を作り出せれば、もう少し楽に生きられるはず。かつては、裏町とか裏通りといった存在が、本音を受け止める場所として機能していたが、社会の様々な場面で裏が整理され、すべてが表になってしまった。うらとは本来、古語で心を意味します。裏の喪失が、現代人を苦しめているのです。」

「言葉は生きる支えになる」「日本人はどこか言葉で自分の心が切り刻まれるのを恐れている。でも心ってまだまだ言葉になることを待(ま)っていると思う。」(略)