ああたれか来てわたくしに言へ
「億の巨匠が並んでうまれ
 しかも互に相犯さない
 明るい世界はかならず来る」と

この四行が「業の花びら」の名でしられてきた詩篇でもあるらしい。

以下、見田宗介「宮沢賢治ー存在の祭りの中へ」の第一章
<自我はひとつの関係である>からの引用。
「且(かつ)てこのやうな詩を作った人もなく、又このやうなすさまじい諦念を体認した人もありません。彼の苦悩には近代的なニヒリズムの浅薄さと安価さがありません」。吉本隆明はこのようにこの詩を評した。


    異稿  宮沢賢治

夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
空には暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるへている
ああたれか来てわたくしに言へ
「億の巨匠が並んでうまれ
 しかも互に相犯さない
 明るい世界はかならず来る」と
 ・・・遠くでさぎが鳴いている
   夜どほし赤い眼を燃して
    つめたい沼に立ち通すのか・・・
松並木から雫(しずく)が降り
わづかのさびしい星群が
西で雲から洗はれて
その偶然な二っつが
黄いろな芒(すすき)を結んだり
残りの巨(おお)きな草穂の影が
ぼんやり白くうごいたりする

「異稿」はこの詩篇の何回となく書きかえられた下書きのうちの、ある時期にいったん成立したかたちであった。
作者がおそらくその死の床でおこなった手入れにおいて、六行目以下を断ちおとすことをとおして、この詩はひとつの、到達し難い普遍性を獲得した<作品>として虚空に放たれることとなる。
けれども「異稿」の一四行をふくめた全体の詩句もまた、凝縮度の高さはともかく、いくつもの鮮明なイメージの交錯する複雑な作品世界として存立している。とりわけこの「異稿」に固有の空間に奥行きをもたらしている眼の赤い鷺、夜どおし赤い眼を燃してつめたい沼に立ち通す鷺の心象は、忘れ難く鮮烈である。


一昨日の「業の花びら」は、小海永二の解説には、ーー仏教徒としての側面を示す詩である。彼が熱心な法華経信者であり、青年の時に、上京して国柱会に入り、仏教布教の努力を重ねたことはよく知られていよう。ーーとあります。
宮沢賢治を通して、人間の<自我>という問題、つまり<わたくし>という現象は、どういう現象であるのかという問題を追いつづけた見田宗介の思索の道すじに導かれて、もう一段深い理解が得られたのではないかと思うのですが、どうでしょうか。