<木村先生の思い出> その3

先生にくっついてと言えば、その後助手になってから「日本ロシヤ文学会」にはじめてつれて行っていただいた時のことは忘れられない(昭和二十六年)。いまとは違って往復車中泊を含む汽車の旅だった。東京では先生のお宅に泊めていただいた。

第一日目の会場は東外大で、先生はこの時ここで八杉貞利先生に私を紹介してくださった。この日そのあと私はとうてい時間内にはおさまらない報告をやって司会の谷耕平先生を困らせたのだが、木村先生も冷や汗をかかれたに違いない。第一日を終って皆で二葉亭四迷のお墓詣りをしたが、そこへの道すがら除村吉太郎先生が若輩の私に話かけて面白い報告だと励ましてくださった。

二日目は早大が会場であったが、もちろんもう私の出番はなく、私は初めて諸先生のお顔をながめていた。神西氏は姿を見せなかった。

神西氏のロシア文学のほん訳は名訳とされていた。ひじょうに凝った、彫琢された訳であった。しかしそれだけにくせがあって(くせ、に、傍点)、私は後には、それまで権威を感じていただけに却って反撥を覚えるようになったりしたが、何れにせよ氏はその後創作に向かわれて、ロシア文学とは縁遠くなって行った。

 (ロシアの文学・思想「えうい」1986・15 追悼
  ■木村彰一 より) つづく


*染井霊園に二葉亭四迷の墓を探したのは、石光真清の遺稿「城下の人」以下の三部作ではなく、この文がきっかけであったと気がつきました。また当時は、学会の会場が一日目と二日目で違っていたんだな~と、意外でした。