父の思い出は、母のそれに比べていつも私の評価は幾分甘い気がします。亡くなってから見つけた父の文章を、何回かに分けて載せてみます。

 <木村先生の思い出> ー初めの頃のことー

木村先生にはじめてお会いしたのは昭和二十二年の秋である。三十才を過ぎたばかりの当時の先生は痩せておられたし、第一印象では立派な体格の方には見えなかった。黒い顔に見えるほど毛が濃かったが、優しい表情をしておられた。

露文学を選択して「先生」が着任されるのを待っていたのは、私とO君の二名だけであった。しかもそれは神西清(じんざいきよし)先生のはずであった。新聞にはかねてそのように報道されていたのである。けっきょく神西先生は実現せず、若い木村先生が札幌に来られたのだが、その間の事情は知らず、初対面の若い先生に「神西先生はお出でにならないのですか」と質問したものである。思えばこんな失礼な質問が私が木村先生に口をきいたはじめだった。先生は申し訳なさそうに代役ですというようなことを言われた。

授業で最初に取り上げていただいたのはプーシキンの「スペードの女王」だった。テキストは先生から本をお借りして、ノートに書き寫して準備した。ロシア語の本らしいものはほとんど持っていなかったが、ロシア文学がやれる(やれる、に傍点)、指導していただけるということで幸せいっぱいの気持であった。木村先生のロシア語と先生の訳を通して聴いた「スペードの女王」の導入部の特別な雰囲気は未だに忘れられない。       

  (ロシアの文学・思想「えうい」1986・15 追悼
                 ■木村彰一 より)