先日の、小野十三郎の「葦の地方(一)」の解説文から。

じめじめしたもの、ぬれたもの、ひかげのもの、そのようなものを通しての自然への「自己没入」はない。乾燥したもの、さっぱりとしたもの、ある荒冷さ、大都会の周辺ならどこででもみられる風景の新しい抒情がここに定着されている。作者はなぜ、「乾燥」を求めるのだろうか。『詩論28』より引用してみよう。


「私たちの自然を形成している一要素である「湿潤」ということを取り挙げてみても、それが、ほんとうの生活の中に存するためには、それと対立理念とも言うべき「乾燥」が強く意識されなければならない。「乾燥」を対極としない「湿潤」など死も同然だ。「湿潤」に想いをはせない「乾燥」が絶対死であると同じように。」こういっている。つづいて作者は、「故国の自然に対する深い倦怠感が、却って生命の激烈な発露を意味し、嫌悪が愛着の表現である場合もある」といい、ランボーやゴーガンの西欧をすててアフリカや南太平洋へいった理由もこの意識にあるという。


しかし、この詩から、(作者もおそらく、そうせっかちに考えてはいないだろうが)すぐさまこのような、アンチ・テーゼとしての発想理論まで帰納させるのは無理である。また、こうした一群の「風景詩」を書いたのは、苛烈な現実であった戦争への抵抗だったといっているが、これも、そこまで読者にもとめるのは無理だろう。なぜなら、それはあくまで態度の問題であり、あくまで作者の精神内部の問題だからだ。そして、この詩にも、そこまでは表現されていない。


作者の「風景詩」に新しい変革的抒情の可能性は認められるが、作者の思想型態まで理解させるには、なんらかのドラマ性をもった表現がなければならないのではないかと思う。

  (岡本喬による解説 教養文庫「現代詩の鑑賞」より)