のちのおもひに  立原道造

夢はいつもかへつて行つた 山の麓(ふもと)のさびしい村に
水引草(みづひきぐさ)に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つていた
ーーそして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいていないと知りながら 語りつづけた・・・

夢はそのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

   (詩集「萱草に寄す」より)

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「忘れつくしたことさへ 忘れてしまつた」というところから、私はたとえようもない思いのふかさを感じた。こういう心情の経験は誰にでもあるだろうし、それは人の生涯のある瞬間に、すべては過ぎ去ったという愛惜の情をもってよみがえってくる。人の生涯にはそんな無残なところがあって、忘れたということさえわすれてしまったとき、そこにはいったいなにが在るのか。それは寂寥である。この詩はその寂寥をとらえている。
       (伊藤信吉「現代史の鑑賞」より)

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旅の記憶を聞かせたい相手が心にあればこそ、「だれもきいていないと知りながら」ということばが生まれる。そこには、深い孤独があります。(中略)旅の間中、自分が見た風景を語るべき相手の面影はいつも詩人の心にあった。再会の可能性はないと知りながら、しかしそれでも、新しい風景を見るたびに、それについて語るべき相手として、その人の面影が浮かばずにはいられない。
       (柴田翔「詩に誘われて」より)