わかれる昼に   立原道造

ゆさぶれ 青い梢(こずえ)を
ゆさぶれ 青い木(こ)の実を
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里(ふるさと)が どこかとほくに  あるやうだ

何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
単調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつていたままに

弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ

ひとよ 
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤(おこ)ることが出来ないやうだ

  (詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」より)


中学校最後のクラス会で、キミちゃんに「○○ちゃん(ポイトン)にもらった手紙に、詩が書いてあったの覚えてる。『ゆさぶれ、何とかを』っていう感じだった。」と思いがけず言われました。そんなに仲良しだったわけでもないキミちゃんへの手紙に、私はこの詩を添えていたのですね。それを覚えていてくれたのも何かうれしく恥ずかしい、良い思い出です。「ゆさぶれ」という強い表現・調子が、思春期の閉塞的とも自覚される自分の世界を、思い切って打ち破りたい気持ちに呼応していたのかな。キミちゃんの胸にも、同様の理由で残っていたのかも。。。v(・∀・*)