こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
  (乾いたでんしんばしらの列が
   せはしく遷(うつ)っているらしい
   きしやは銀河系の玲瓏レンズ
   巨きな水素のりんごのなかをかけている)
りんごのなかをはしつている
けれどもここはいつたいどこの停車場だ
枕木を焼いてこさえた柵が立ち
   (八月の よるのしづまの 寒天凝膠=アガアゼル)

宮沢賢治『青森挽歌』という二五二行の長詩の、走り出しの数行である。

ここで詩人ののっている汽車は、鋭利なフォークの先端のようにいきなりりんごの果肉の中を走る。<きしやは銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけている/りんごのなかをはしつている。>

宮沢賢治の書くものの中には、<汽車の中でりんごを食べる人>というイメージが、くりかえし印象深くたちあらわれてくる。『銀河鉄道の夜』の中でも、<鍵>をもった人である天上の灯台守が、いつのまにか黄金と紅の大きなりんごをもっていたりする。りんごは「鍵」の変身ででもあるかのように。そしてこの銀河鉄道のおわりのところで、少年ジョバンニに世界の真理を開示してみせる<黒い大きな帽子の男>は、「おまえがあうどんなひとでもみんな何べんもおまえといっしょに苹果=りんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ」という。(中略)人間が生のひとときを分かちあいながら、あるいは孤独を噛みながらたしかに生きたということを刻印するあかしのように、汽車に乗る人たちは、いつもりんごをたべている。あるいはりんごを手にもっていたり、ポケットにしまっていたりする。

 (見田宗介「りんごの中を走る汽車」より)