1960年代の日本は、第一次共同体の根こそぎの解体の上に、都市に流入する幾百万幾千万の家郷喪失者(ハイマートロス)の群れの不安と孤独とを権力として、高度近代化を一気に成就する。

 近代社会の古典形式は、かつて第一次の共同体のもった、人間の生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」として開放し、人間の生の精神的な根拠としての側面を「近代核家族」として凝縮する、という二重の戦略であった。

 森がある。季節が来ると、鳥たちがたち帰ってくる。森が少しずつ伐採される。それでも鳥たちは、小さくなってゆく森に年々たち帰る。森が一本の木になると、鳥たちは木がその重みに耐えられない程に密集してその木に宿る。木が倒されて森がきれいになくなると、それでも鳥たちは、森の「不在」に向かってたち帰る、というシュペルヴィエールの作品があったと思う。

 日本の近代市民社会の、あのあらあらしい創成期、「ただ一人」の異性に向けて注がれる「アカシアの雨」のカセクシスの濃度と切実は、山青く水清き第一次共同体の総体の「非在」に向かう愛着の、一点に凝縮されてゆく形態であったともいえる。


 反対にさみしがりやのリストカッターの、何人の友だちをもってももっても充たされることのない渇きのようなものは、核の家族の「非在」に向かってとめどもなく注がれつづける熱情の、中心を失って散開するさびしさの洪水であるもののように、わたしにはみえる。

 <親密なもの>の濃縮。そして散開。

(見田宗介「愛の散開・自我の散開」より)