かつて吉本隆明は鶴見俊輔を批評しながらこのように宣言している。「井の中の蛙は、井の外に虚像を持つかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像を持たなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている、という方法を択びたいとおもう。これは誤りであるかもしれぬ、という疑念が萌さないではないが・・・生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで生活し、死ぬというところに、大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば、これこそが思想化するに価する。ここに「自立」主義の基盤がある」

 けれどもわたしたちのうち、最も真摯な、明徹な、硬質なひとりの思想家が二十年間その井の底を掘り進んだすえに到達しえた地点が、井の外の幾億という大衆にとって「悪魔」であるような地点でもしあったとすれば、それはどういうことだろう。<井の中にあること自体が、井の外につながっている>という方法に原理的な誤りがあったのではなく、<現代日本>という井のうがたれてある場所が、いわばその基底もろとも浮き上がるような地殻の変動が、この二十年の間にあったのではないか。

 これは吉本の問題ではなく、わたしたちの問題である。現代日本という井の中の蛙は、じぶんの生活の利害と感覚とそのさし示す「倫理」意識の方向線をどこまで掘り進んでいっても、(その「生活」の構造じたいを批判的にとらえかえすという固い岩盤をこじあける作業をどこかで通過しないかぎりは)そのまま井の外の世界についての、鈍感で傲岸な虚像を形成してしまうという奇妙な位置に押し上げられている。幾千万対幾億という規模で、<大衆>自身の生活利害と生活感覚を引き裂くかたちで現代資本制世界は成熟しているからである。
(見田宗介「井の中の蛙の解放ー現代世界の地殻変動」より 1985年4月26日)