この世の中の死にたいという感情を吐き出すことができる場所ってないよね。

楽しみましょう。頑張りましょう。はたくさんあるけど、生きましょうという

場はないよね。世の中の死にたいという感情に向き合う場所、

死にたいという感情の側で寄り添う思考の片鱗があったらいいよね。

 

色々、疲れた。疲れたら1ヶ月くらい休んでもいいよね。

思考が枯れた。一度枯れたら戻ってこないのかな。

 

深い思考になっていた時、それは、取り憑かれたように思考していた。

思考がなくなった今、その意欲すら枯渇しているように感じる。

 

心が温まることをたくさんしたい。

 

なんで死にたいという感情があるのだろうか。

死にたいという感情がない世界。それは幸せなんだろうか。

 

ちょっとしたことでも涙脆くて、感情を受け付ける装置のように、

共感することで死にたいという感情を半分にできるのだろうか。

 

苦しく、辛いこと、沢山ある。

うまくいかないこと、沢山ある。

 

いろんな人間がいる。いろんな人間の生き様がある。

私は、何者でもないのか。生きる意味はあるのか。

 

高校生の時、17歳の時に、生きる意味を考えた。

あるか、ないか、の思考をし続けた。不思議と思考し続けられた。

江原さんの本を読んだ。ソウルメイト、小我、大我という概念を知った。

東野圭吾の白夜行を読んだ。人間は、そう。何かを拠り所にしたかった。

RADを聴いた。狭心症を聞いて、思考をして、外縁をとっていった。

私という境目をなくしてみた。人間を知るということを知った。

 

そう。高校生の時を思い出してみる。

あの時にあったもので今ないもの。

それは、他者を知っていくことの重みを感じてしまったことなのかもしれない。

 

他者を知ること、知り続ける先にあるもの。

それは私自身をも開示し続けることにもつながる。

全ての概念を受け入れる、他者にその苦痛を負わせてしまうことにこれ以上の勇気がないのかもしれない。

 

失敗してしまうことがあるから。距離感を見誤るから。

怖くなった。人間が怖いから。