歴史の資料などで役職の図を見ますが、だんだんと増えて行ったとみるのが当然でしょう。
勘定奉行も本来は民事訴訟などを扱う公事方と 財政をとりしきる『勝手方』に分かれていました。
年が減るにつれて勘定方のちに勘定奉行に名称を変更します。
寺社町奉行も幕府が制定した禁中並びに禁中並びに公家諸法度を監督するために創設されました。
大阪所司代を経験してから、老中になるというのも、後になって出来たも推察出来ます
織田信長の4男秀勝と5男信房は順番が逆と言われています。
ちなみに、秀勝は子供のいなかった秀吉の養子にします。長浜城を任せます。
秀吉は本能寺の変で、亡くなった信長の棺桶を守る親族の一人に秀勝を抜擢しました。
実は次男信雄と3男信孝も同じ年に生まれ、信孝のほうが先にうまれてがた、次男信雄は正妻(実は違う)の信忠と同じ母でしたので、次男と3男を入れ替えたようです。
正妻の実家の権勢にもより、よくあった事例です。
現実に、信長も父の3男でしたが嫡男で後継者として指名されます。
骨肉の争いをしたのは同腹の弟であったため、自らの後継者は長男信忠と指名していました。
天下人、徳川家康。
子供の頃から、苦難の連続でしたがその家族も苦難、苦慮しました。
母お大の方とは早くに生き別れ、母は久松俊家に嫁ぎます。
次男定俊は今川こ人質、今川家没落後は武田の人質となり、甲府で過ごし、隙を見て逃げると途中凍傷を患い、歩けない体になります。
お大の兄水野信元は、甥の家康の手にかかり、謀殺されます。信玄なきあとの武田と内通しているという噂を流されました。真相はわかりません。
織田信長家臣の佐久間信盛と仲が悪く、陥れられたとも、水野信元が尾張、三河で領する権限を煙たく思った、信長家康の判断で排除されたとも言われています。
