1311年9歳の時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕内管領長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで3代の中継ぎ執権を経て、正和5年(1316年)、父と同じ14歳で14代執権となる。その頃には円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた。

 

高時は在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き、1324年、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された。

 

1326年には、病のため24歳で執権職を辞して出家します。後継者争いが起きます。高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する嘉暦の騒動が起き、金沢貞顕が執権に就任するも1か月ほどですぐに辞任し、4月に赤橋守時が就任することで収束します。

この騒動の背景には、太守高時の庶子である邦時を推す長崎氏に対し、高時正室の実家が安達氏であったため、正嫡子が生まれるまでとして高時実弟の泰家を推す安達氏との確執もありました。

 

高時は運命の

1331年には、高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起きます。

8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると、軍を派遣して鎮圧させ、翌1332年3月にはまた後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。皇位には新たに持明院統光厳天皇を立てる。

1333年閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人・新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。5月18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、しばらくは持ちこたえるも、4日後の5月22日に守備を突破されて鎌倉市内に乱入されたため、高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃して果てた。

 

享年31(満29歳没)