徳川家康が近江永原に所領を持っていたようです。
かつて、織田信長は近江を交通や支配の要衝として永原を重視し、本拠の岐阜と京都の往復に際し、近江永原を入京前日の宿所にしていました。
家康と同盟していた織田信長は1回目の越前、朝倉攻め、2回目の姉川の戦いの後、
を行いますが、その後、『志賀の陣』がありました。
信長の求めに応じて家康は京都・南近江にとどまり、東福寺や粟田口に展開してきます。
その後の天下人、秀吉は宿泊地にしていませんが、軍の集合地にしていました。
これは永原には大軍勢の駐屯地にできる利点があったのです。
近江永原に所領を秀吉から得たのは京都滞在費を賄うためと言われています。
関ヶ原の戦いで勝者となった家康。
近江永原に御殿を造営します。江戸から京都に入る際、
直前、上洛準備の宿舎としての位置づけが、『永原御殿』でした。
以降、2代目秀忠も同様、上洛の際の宿舎として永原御殿が使用されます。
上洛の必要がなくった家光のころに永原御殿は改築します。