酒井忠次は、松平譜代の家臣で筆頭です。
先祖は松平家と同族で、松平親氏です。松平親氏についてはまた書きます。
酒井家は松平家に長年仕える譜代でした。
忠次の妻が家康の祖父清康の娘でした。
家康の義理のおじに当たります。
酒井忠次は戦場での槍働きより、軍師参謀役であり、宴会芸まで得意でした。
現代で例えるなら専務取締役でありながら、酒宴の席では、宴会部長も兼ねる人物でした。
もう一人の両家老の石川数正は家康より9歳年上で、人質生活を共に過ごしました。
外交力に優れて、秀吉との和解交渉で力を発揮します。後に、秀吉のもとに走ります。
彦衛門と呼ばれる鳥居元忠は家康の幼馴染でした。
家康より3歳年上で駿府で人質生活を共に過ごします。名前の『元』字は、今川義元からもらっています。
父の忠吉は、今川家の代官の目をかいくぐり武器や食料を貯蔵して家康の帰還を待っていました。鳥居家は商人的武士でしたので、算盤勘定にも強かったのです。
武田家滅亡時に甲斐を任され、武田四天王の馬場信春の娘を側室に迎え、家康から、「お前も隅に置けないな。」と揶揄されます。
元忠は常に家康もともにあり関ヶ原の戦い前哨戦では、伏見城で敵を食い止めます。
西軍の大軍が押し寄せるので、城は落城の憂き身に遭うから兵隊は三千で十分と言います。
伏見城に残されたのは長年徳川家康に仕えた老家臣団で、捨扶持でもありました。家康は、息子や孫を連れて中山道を下ります。