藤堂高虎の父親『藤堂虎高』は甲斐の武田信虎に仕え、『虎』の字を与えられました。勇将でしたが同僚の嫉妬を買い、甲斐を離れて、近江に土着し、浅井長政に仕えます。

父親の名前を逆にした高虎は近江の磯部員昌に仕えてからは津田信澄(織田信長の甥)と主君をかえていきます。理由は俸給(給与)の少なさや主君の明日に明るい未来を感じれなかったからです。

高虎は現代で言う、転職の『ジョブホッパー』ですが戦国時代は、「主君に才覚なし。」と見てとれば、出奔して次の主君に仕えることは珍しくはありませんでした。

戦国時代において、技術や功績、経験を持っていれば転職はそれほど難しくはありませんでした。

高虎は、『自らを高く買ってくれる者』を選び続けたのです。

後に豊臣秀吉の弟の豊臣秀長にも仕えます。ここで築城術や経理を学びます。居心地は良かったようで長く仕えますが秀長没後は、秀吉仕えます。

上司として、高虎は部下思いでした。

「家来にはまず情けをかけるべき。何か失敗があっても見逃すことが肝要。処罰するかは道理にあってるかだ。」

「召しつかうものには良いも悪いもない。その者の良いところを見いだして適材適所で使うべき。」と言ってます。

高虎自身、たくさんの主君に仕えたので、『雇われる側』の立場もよくわかっていたのでしょう。

【この記事は、2020年月5日9日に加筆修正をしています。】