徳川家康は天下分け目の関ヶ原の戦に勝利します。
伊賀上野城、丹波篠山城を、近江膳所城の天下普請を外様大名に手伝わせて、力をそぎ、同時に外様大名との婚姻政策を進めます。

1605年、家康自らは征夷大将軍を息子に譲り、『大御所』になります。秀頼を内大臣から右大臣に昇進するよう朝廷に働きかけ、認められます。

家康は『主君』豊臣秀頼を、伏見城に挨拶に来させます。

加藤清正が秀頼から片時も離れず、また出された盃や膳に口をつけさせなかったと言われます。 このときに秀頼は、19歳であったものの体格も良く、世の中で言われるほどのお坊ちゃん育ちでなかったので、家康は警戒したと言われます。

このとき家康は、72歳。余命幾ばくもない自らの人生を覚り、息子秀忠では対抗できるか疑問を持ちました。

京都では落首があり、『次の天下人は秀頼』という認識が上方の人達にはありました。
家康は自らの目が黒いうちに豊臣を滅亡させることを誓ったのです。

奇しくも、この面談が豊臣家を滅亡に追い込むきっかけになったと言われます。