織田信雄は本来は、『信長の三男』でした。母親が正妻(待遇)で兄の信忠が信長の跡継ぎに決まっていましたので、

20日ほど遅れて産まれた信雄が『次男』になりました。

本能寺の変後の清洲会議では、信雄は兄の信忠の息子、『三法師の後見人』となります。
主導権を握られた秀吉の処置に不満を持つ『弟』の信孝は織田筆頭家老の柴田勝家と協同します。

しかし、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北します。

秀吉にそそのかされた信雄は、『弟』信孝を自刃に追い込みます。

さすがの秀吉も主君の子供を殺すには忍びなかったのでしょう。

やがて信雄は徳川家康を味方に引き込み、小牧長久手で秀吉と戦います。

戦況は信雄、家康連合軍に優位に進みますが、秀吉の甘言に誘われ、信雄は降伏。

秀吉の配下になります。

秀吉による越中の佐々成政討伐に参戦して信雄は従三位権中納言になります。

裏で秀吉の働きかけがありました。

小田原討伐で北条が滅ぶと徳川家康が関東に移ります。信雄は、本領の尾張、伊勢から三河、遠江、

駿河、信濃、甲斐の旧徳川領に移ることを言われます。

信雄は主君の子供としての甘えがまだあったのでしょう。

「先祖伝来の尾張、伊勢を離れたくない。」と秀吉に言います。
ついに秀吉の逆鱗にふれ、栃木県に追放されます。

後に許され大阪の天満に所領をもらいますが、半分徳川方のスパイで情報を家康に漏らします。

淀君とは従兄でしたので、大阪城にも出入りしていました。

「戦いが、始まれば、この常真(信雄)にお任せあれ。昔は大軍の大将を務めたものです。」

と見栄をはります。

スパイ疑惑か、城内で使えないやつと見切られたのか大阪城を出ます。

戦後は徳川家に仕え、織田家は『高家』として存続します。