中世、朝廷や貴族にとっても関東は、『東夷(あずまえびす)』と呼び、ある種野蛮な場所でした。
よって当時は京都にある『六波羅探題』こそ、『征夷大将軍の本営』と考えられていました。
後に、『六波羅探題』は『北方』と『南方』に別れ、それぞれに『別当』=長官がいました💠。
執権の北条の一族が六波羅探題長官に就任し、そこから、執権や連署(副執権)になりました。いわば、六波羅探題は北条一族が出世するための登竜門であったわけです。
鎌倉幕府は創設者の源頼朝以降、源氏の将軍が3代で途絶えて外戚の北条氏が執権になります。
頼朝の妻政子の実家北条氏は、『坂東八平氏』のひとつでしたが家格はそれほど高くありませんでした。
源氏の将軍は絶えても『将軍職』はなくなったわけではなく、天皇家や藤原摂関家から、将軍を迎えます。
また、北条氏は邪魔になる、梶原氏、和田氏、比企氏などの有力な御家人を次々に滅ぼしていきました。まさに、『血の粛清の歴史』です。
鎌倉幕府5代執権の北条時頼の時に、重鎮の三浦氏が滅ぶ『宝治合戦』、9代貞時の時に安達氏が滅ぶ『霜月騒動』など、常に内乱が起きます。
8代時宗の兄時輔は、六波羅探題の長官でしたが、幕府から警戒され、暗殺される事件も起きています。
【この記事は、2020年6月13日に加筆修正をしています。】