頼宣は、徳川家康の10男に生まれます。また、8代将軍吉宗の祖父にあたります。
御三家の祖となる家康の晩年の子ども達の中で、最も期待を掛けられたのが、この頼宣でした。幼少期から覇気にとんでいましたので、『庶子の嫡子』(側室の子供の中で有望)という位置づけでした。
頼宣は大阪の陣では戦いに参加できなかったことを大変悔やんだと言われています。
戦国時代の隆盛期に生まれていれば、頼宣はひとかどの武将になったでしょう

頼宣は成人するまで駿府で父家康の手許で育てられ、後に水戸藩主になりますが水戸には代官を置いていたので自ら赴任はしていません。さらに、家康が晩年に過ごした駿府城主になります。
頼宣はまさに、徳川家の『期待の星』でした。
しかし、運命の歯車が突如狂い出します。
駿府藩主から紀伊和歌山藩主に左遷されます。兄で2代将軍の秀忠から警戒され、頼宣は紀伊和歌山に飛ばされました。交通の要衝地でもない紀伊の山奥に。
紀伊和歌山藩では上杉流軍学を採用しますが、甲州流軍学を継承、流布する徳川将軍家に対する頼宣の『反骨精神』が見られます💠。
徳川家康は滅亡した武田の遺臣や軍制を引き継ぎましたが、それこそが、『天下人』になれた要因のひとつです。
戦国時代に、「武田信玄に勝てるとしたら、上杉謙信しかいなかった。」と言われています。
頼宣は上杉流軍学を紀州藩に取り入れることで、将軍家に対抗しようとしました

将軍家からの警戒は続き、やがて由井正雪による慶安事件と呼ばれる、幕府転覆未遂事件が起きます。
『黒幕は頼宣』と言われたのは、頼宣の気質による所が大きいでしょう。
(つづき)
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【この記事は2020年6月10日に2件アクセスありました。加筆修正をしています。】
【この記事は2020年6月11日に3件、6月19日に1アクセスありました。】
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