関ヶ原の戦いで、高野山に謹慎した昌幸は同地で亡くなります。

昌幸が息子幸村に語った作戦があります🟦。

大阪城に迎え入れられてたら昌幸自らが若干の兵を率いて、関ヶ原もしくは伊勢の桑名まで、出撃し、徳川方と、にらみ合いをつづける。相手が真田昌幸であれば、迂闊に手を出せない。
さらに、滋賀県の瀬田で陣をはれば、時が稼げる。

京都の二条城を焼き払い、徳川の城を焼き払い、大阪城に立て籠れば豊臣方に通じて来るものが出てくるとクローバー

最近の研究では作戦のハードルが高すぎるので、『実行は不可能であったのでは』と言われています。

しかし、『稀代の謀略家』は生きて大阪城に入ってあれば、近いことをしたのではないかと、わたしは、推測しています。

【この記事は2021年2月6日にアクセスがありました】