織田信長には11人の息子が、いました。

長男信忠に早くに家督を譲りました。
これは、自らの経験によるものです。
信長自身は、3男ながら、父の後継者とされていましたが、家督争いで弟の信勝(信行)を暗殺しています。

信長は、家督争いを防ぐために布石を打ちます。

次男信雄は、伊勢の名族北畠家に、3月信孝は、神戸家に養子に出しました。
次男と3男は同じ年に生まれます。しかも、20日ほどの差でした。

信雄は長男信忠と、同じ母親であったため、兄弟の順序が、優位になったと言われています。

本能寺の変ではこの2人の間で、後継者争いが起きますが、秀吉主導による、『清洲会議』で、信雄が勝ち、3男信孝は、自害します。器量は、愚純な次男信雄に比べつ、3男信孝が勝れていました。
本能寺の変がなく、信長による天下が続いていれば、信孝は、『四国探題』になっていたとも言われています。

尚、信長の7男以下の男児は、関ヶ原の戦い前後に亡くなっています。