戦国大名武田信玄は、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)に加え、三河や美濃の一部など広大な土地を支配していました。

その息子勝頼はさらに領土を拡大します。

意外にも、武田の版図が大きい時代は勝頼の代です。


信玄は自分の死後、『内政に重きを置き、領土を維持するよう』を遺言で伝えました。

しかし、跡をついだ勝頼は、『国の外』で戦い続けたのです🍀

研究者はこの点を指摘して、「勝頼は美濃や三河の土地を捨てて、甲斐に籠るべきだった。」と言っています。

山岳地帯の甲斐や信濃に立て籠り、持久戦に持ち込めば武田に勝機はあった、と。

勝頼は内需に力を入れることなく、『戦に勝つ』ことで、権勢を高め、父信玄より戦いに強いことを国外ではなく、家臣団にアピールしたかったのでしょう。

勝頼は父信玄から、総領ではなく、『陣代』という中途半端な立場に立たされます。

勝頼は、総大将であって総大将でない微妙な立場です。

譜代の家来は、他家を継いだ勝頼を主君と認めずに、バカにしていました。

長篠の戦いではあろうことか、親類衆の武田信廉や穴山梅雪が大将の勝頼を捨てて戦線を離れます。

武田の親類衆の役目は、『本陣つまり総大将を守ること』でした。戦線離脱の防波堤の崩れは『家中の崩壊』を表しています。

味方から崩れては、勝てるものにも勝てなくなります。この長篠の戦いでは、山県昌景馬場信春内藤昌豊土屋昌続真田信綱等、長年武田を支え続けた重臣が戦死します。

武田の重鎮達が戦場に散った戦いを機に武田は滅亡の道を歩んでいきます💠。


武田信玄は合戦に強かったのですが、後継者育成、それを盛り立てるシステムの構築には失敗たとも言えるでしょう。

【この記事は、2020年7月13日、12月27日に加筆修正をしています。URLを加筆修正日の記事につけておきます】

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