武田昭信

そんな戦国武将は、知られていません。

幻の名前です。
実現していたら、歴史が少しは変わっていたかもしれません。

武田勝頼のことです。

父の武田信玄が室町幕府15代将軍義昭に官位と偏諱を受けられるように依頼していましたが、結果叶いませんでした。

武田勝頼は、『甲斐の虎』と周囲から、おそれられた武田信玄の4男に生まれます。

信玄は信濃の諏訪氏を滅ぼし、当主諏訪頼重を切腹させました。その娘を側室に迎え、生まれたのが勝頼です。

敵地を支配、人民をおさめるために、勝頼を諏訪氏に養子に出して、『諏訪四郎勝頼』と名乗らせました。

武田の後継者になるも、勝頼は他家を継いでいましたので信玄時代からの重臣となじめず、孤立していきます。宿老からすると自分たちと同格であったものが、とたんに『主君』になるので、違和感、不満はあったでしょう。中には信玄の弟の子武田信豊を支持するもぬもいました。

長篠の戦いで大敗した後も、織田信長や徳川家康と戦います。勝頼は戦に強く、父信玄さえも落とせなかった高天神城も落とします。

しかし、あいつぐ合戦に甲斐の人々は疲労困憊し、人心も少しずつ離れていきます。
木曽義昌や穴山信君等の親類衆が、織田、徳川に寝返ります。

織田信長や徳川家康に攻められた勝頼は妻や息子信勝とともに甲斐の天目山で自害します。

勝頼、享年37歳。
信玄が死んで10年後のことでした。

『甲陽軍艦』に勝頼は『強すぎる大将』と、書かれています。

勝頼は有能でありながら、先鋒も務めることも多く、大将として危うさを指摘されています。

(続く)

【この記事はアクセスがあり、2020年7月13日、8月20日、2021年3月30日に加筆修正をしています。】