権力者、豊臣秀吉は死の床でうなされながら、幼い息子秀頼の未来が心配でした。
同時に自らのいなくなった後、権力の座を狙う人物を怖れたのです。
虎視眈眈と狙っていたのは徳川家康です。

秀吉は安土桃山時代、最大の実力者を簡単に潰すわけにはいかず、あの手この手で家康を懐柔しようとしました。
秀吉の遺言はつぎのような内容になります。

一、徳川家康は三年間在京(京都)しなくてはならない。
用事があるときは宇喜多秀家(五大老のひとり。秀吉の親戚)に申し付けること。

二、家康を伏見城の留守の責任者にすること。
ならびに、五奉行の前田玄以と長束正家を筆頭に、五奉行の内もう一人を伏見に置くこと。いわば、家康の監視役。
三、五奉行の残り二人は、大阪坂城の留守を努めること。
四、秀頼が、大坂城の際には家来は家族を連れてつきしだがうこと。

これらが秀吉の遺言です。

家康をおそれた秀吉は、前田利家に秀頼の後見を託します。
徳川家康にとっても、前田利家が目の上のたんこぶでした。
ですが、病気がちだった、利家が死亡するまで、時を待ちました。

この後、天下分け目の関ケ原の戦いが起きるのです。