吉宗が紀州藩の藩主に就任した頃は、紀州藩の財政は悪化していました。
吉宗の兄と将軍家との婚約であったり、参勤交代があったりで、もの入りが多かったわけです。

吉宗は紀州藩の圧迫した財政を緊縮していきます。少しずつ立て直していきました。

8代将軍になってからも、同様でした。家来には、禄高に応じて、上納金を負担させたりしました。『上げ米の制』と言います。年貢を上納させる代わりに、参勤交代の制度を緩めました。
大名が、江戸にいる期間を短くして、国許にいる時間を長くしたわけです。給料を減らし、休みを増やしたわけです。まさに、『アメとムチ』ですねアップ

どこかの国の政治家とは違い、吉宗は自らも、『身を切る』政治家でした。
将軍とは言え、自らも質素な生活をし、服装も派手なものは着ませんでした。
好きな酒も一定の量を決め、決して深酒をすることはなかったと言われます。

吉宗の政策はそれまでの中弛みした世の中を締めるものでした。ただ、絞めつけるだけではなく、息抜きの場所も作っていました。
5代将軍綱吉の『生類憐みの令』で禁止されていた、鷹狩を復活します。初代将軍であり、ひいお祖父ちゃんにあたる家康を見習ったと言われています。また、『目安箱』を設置して、庶民の意見を聞くようになります。のちの『小石川療養所』の開設も、目安箱の意見がもとになったと言われています。

『アメとムチ』を使い分けた吉宗は名君です。
これらの吉宗の一連の政治改革は、『享保の改革』と言われています。