仁科盛信は武田信玄の5男です。すぐ上の兄は、四郎勝頼です5
盛信と同じ母を持つ妹、菊姫は上杉景勝の正室になります。
五郎は元服して、『武田晴清』と名乗ります。百騎を率い、武田の親族衆となります。
父信玄の命令で信濃(いまの長野県)の豪族、仁科家を継いで、『仁科五郎盛信』と称します。
盛信は、7人の男兄弟の中で、父の信玄にもっとも気質が近いと言われます。
文武両道の名将で、領地の高遠の農民からも慕われていました。
1582年の織田信長による武田攻めでは織田信忠(信長の長男)に降伏を勧められるも、盛信は使者を追い返しました。
武田信廉(信玄の弟)、武田信豊(信玄の甥)、穴山信君(信玄の甥)、木曽義昌(信玄の娘婿)など、親族衆が、つぎつぎに主君の勝頼を裏切っていく中で、盛信は最後まで踏みとどまります。
仁科盛信が守る高遠城を囲むは、織田軍5万。盛信は、怯むことなく徹底抗戦します。
やがて場内の女子供までが武器を取って戦ったと言われます。しかし、多勢に無勢、ついに力尽きます。高遠城は降伏することなく全滅。
盛信、この時、26歳でした。武田武士の最後の意地を見せた名将です。
兄勝頼思いの盛信は、信玄の弟、信繁を彷彿とさせる、『武田の副将』でした。
ちなみに信玄の弟で『武田の副将』と言われた『武田信繁』はフムフム歴史のその1に書いています。
どうぞ、ご覧ください。