フムフム歴史の徳川秀忠とお江の章で触れました、保科正之です。

保科正之は江戸幕府二代将軍秀忠の4男です。幼い頃は『幸松丸』、あるいは『甲松丸』と呼ばれます。

母の身分が低いため、大奥では育てられず、場外(家来の家)で生まれます🍀。

彼を育てたのはなんと武田信玄の二女、見性院でした。

武田家滅亡から35年が経過していましたが、見性院は旧武田家臣団の精神的支柱でした。かつての信玄の部下で、信州高遠に保科氏がいました。見性院は保科家の養子とし引き取ります。

正之の幼名の『甲松』には武田家本拠地の『甲斐』と徳川の旧姓『松平』を足して、武田の遺伝子を遺そうとしたのでしょう🍀。

正之は成長すると次兄の駿河大納言徳川忠長と対面します。大変気に入られた正之は忠長より、家康の形見をもらいます。

忠長切腹後は、長兄の将軍家光に拝謁します。
家光は異母弟の正之を重用します。山形藩主として、20万石を有する親藩となります🌱。

正之は山形藩藩主として有能で、領地に住む90歳以上のものには、配給を渡します。いわば日本最初の国民年金制度を創設しているのです💠。

余談ですが、今後の日本では老齢年金の受給開始年齢が、68歳に引き上げる案が出ているそうです。どうなるのでしょうか?

それはさておき、正之は活躍し、御三家に次ぐ家柄として、幕府を支えます。兄の家光の臨終の際には、後事を託されます🍀。

孫の正容(まさかた)のときには、『松平』の名字を名乗ることを許されます💠。

さらに子孫には、松平容保(かたもり)がいます。幕府末期に佐幕派として薩長連合軍と戦います。