平清盛の長男です。母は平時子ではありません。
左大将、内大臣になり、小松第にいたので、『小松内府』『小松殿』と呼ばれました。

平治の乱でライバル源義朝(頼朝の父)を倒して、政権を牛耳ると独裁者となりゆく父清盛をしばしば諫めた、智の人です。
父清盛と後白河法皇の関係がしだいに悪化してゆくと間に入り、仲裁します。
鹿ケ谷事件で清盛が法皇を捕らえようとしようしますが、「家来の身分として臣逆の道を誤ってはなりませね」と言って止めます。清盛はまわりの意見に対してほとんど耳を貸さなかったと言いますが長男重盛の忠告だけは聞きました。それだけ重盛は父から絶大な信頼と期待を寄せられた人でした。
世間でも、「重盛があとを継げば、平家の未来は安泰」と言われるほど、人望の厚い人でした。
しかし、彼は、42歳という年齢で早死にします。
周囲のものはその早すぎる死を惜しみます。

清盛には8人ほどの息子がいます。
次男基盛は早死にしますので三男宗盛が清盛死後の平家の総帥になります。
しかし、宗盛は気が弱く、臆病者で武士のリーダーの気質ではありませんでした。絶大すぎる独裁者の後を継ぎますが、あまりに荷が重すぎたのでしょう。
やがて源頼朝、義経、木曽義仲など源氏の反撃によりしだいに平家の力は衰退していきます。

壇ノ浦の戦いでも平家の軍事権を握る四男知盛は戦には強かったのですが清盛ほどの政治力はありませんでした。

歴史はもしもはありません。重盛が生きていれば平家の歴史も変わったのかも知れません。