4月になりいよいよ入学式。はじめて学生服をきたフミオはすこし凛々しく見えた。

詰襟の襟が気になるようだ。フミオは首筋に何かが触れるのをすごく嫌う。

理由は簡単。くすぐったいからだ。しかし、それもしばらくの間だけである。

学校に着くとフミオ達はすぐにトレーニング服に着替えるからだ。


養護学校というのは特殊学級とはだいぶん趣が違う。まず授業のほとんどが作業という感じの内容だった。

中には自分の体をうまくコントロールできない子もいる。しかし、その子達もみんなと同じ内容の事をする。

周りから見ると少し可愛そうに思える光景かもしれないが、みんなの顔を見ると生き生きとした目をしている。

炎天下、汗だくになりながらもみんな一生懸命に頑張っている。そして、みんなすごく楽しそうにしている。

なかなか言葉での「会話」は出来ないが、みんな身振り手振り、あらゆる方法でコミュニケーションをとりながら。

ここには言葉や知能のハンデは一切関係ない。だって、彼らを馬鹿にしたり、責めたりする人は誰もいないから。

特殊学級では周りに普通の子ども達もいた。当然馬鹿にしたりする子もいた。その子らの親たちもそうゆう目で彼らを見ていた。

何度悔しい思いをしたことか…。しかし、ここではみんな同じ環境の子ども達ばかり。ちいさい力でもお互いに助け合い、生きる楽しさ、生まれてきた意味を知る為に、毎日フミオはもちろん、家族も教師達も一生懸命だった。


しかし、この頃からだった。私がフミオの事を友人達に言わなくなったのは。と言うより「隠す」ようになったのは。兄弟の話がでてもあやふやに答えるだけ。正直いって恥ずかしかった。今思えば情けない事である。しかし、当時の私にはフミオの存在が恥ずかしく思えた。本当は両親も同じ思いをしていたかもしれない。


この数年後、母からある事を聞くまで、私の中に、フミオを「隠す」という思いが続いた…。



…つづく

フミオも6年生になった。体も大きくなり「見た目」ではふつうの6年生と変わらない。当然のことながら中学校をどうするかという問題が出てきた。このまま特殊学級のある中学校へ行くか、もしくは養護学校へ行くか。小学校にあがるときと同じ選択をしなければならなかった。色々まよった挙句両親は「養護学校」を選んだ。もちろんフミオ自身の選択ではない。とりあえずフミオの義務教育の残り3年間の方向が決まった。


つづく

フミオ達のクラスも遠足や修学旅行がある。遠足の時、実はフミオはあまり喜ばない。

お菓子を300円分買って、水筒にジュースを入れて、と楽しいはずの遠足がフミオは嫌いだ。なぜか?

それは、お弁当を持って行かなければならないからだ。フミオは小さい時から冷めた物をあまり口にしたがらなかった。だから冷めたお弁当が嫌なのだ。どんなにお腹が空いていても、いつもお弁当は朝、母が作ったそのままの状態で持ち帰ってくる。そして家で母に怒られながら冷めたお弁当を仕方なく食べていた。

遠足の日のごく普通の我が家の光景である。

つづく…

「特殊学級」

この言葉からもわかるように授業の内容が一般の学校と大きく異なる。もちろん文字や数も教えるが、それ以上に重要なことを教える。社会で生きていくうえで必要な知識をじっくり時間をかけて教えていく。これは本当に根気のいる授業だと思う。同じ事を毎日毎日繰り返し、一つ一つ教え、一つ一つ覚えていく。家でも同じようなことを繰り返す。周りから見れば、おかしく思えるようなことでも本人達は一生懸命に一日一日を生きていく。これはふつうのがっこうではまず感じることはないだろう。

つづく…

フミオの運動会に行った。

 

幼稚園の時と違い人数も多く賑わっていた。フミオと同学年の子供達の50メートル走が始まった。しかし、フミオはそれには出場しない。特殊学級の生徒だけの種目に出場した。

フミオ達も50メートル走があったが、私は大きな相違点をここで発見した。

普通の子供達の方は、とにかく早く走ろうとしてよく転ぶのだが、フミオ達の方は誰一人転ばないのだ。一見逆に思われそうだが実際は違った。障害を持つ子は自分の限界を知っているから転ばないのだ。もちろん一生懸命走っているのだが、これ以上の力を出すと転んでしまうというのを本能的に感じているのだ。普通の子はそれがわからないので自分の力以上を出そうとして転んでしまうのだ。

これは今後フミオ達が生きていくうえで非常に重要な意味を持つだろう。私は幼いながらそう感じた。

つづく…

帰りも初めのうちは母が迎えに行っていたが、そのうちフミオは一人で帰って来るようになった。

 

大きな交差点を2つも渡り、えっちらこっちら帰ってくる。最初はみんな不安だったがフミオはちゃんと帰ってくる。大きなランドセルを背負って。普通は歩いて20分の道のりを1時間かけて。何度かフミオが帰るのを待って後ろからついていったことがある。一人で笑いながら楽しそうに歩いていた。ある店の前では並んでいる商品をじっと眺めたりしながら…。帰ってきても疲れている様子はなかった。いつも大きなランドセルを背負って。

ふみおはこのランドセルを5年生の時まで使った。ピカピカのままで。

つづく…

このブログとはあまり関連性はありませんが、ちょっと一休みしてみましょう!


最近色々な事がたくさん起こっていますね。事件とか異常気象、地震…

もっと身近なところでは知人が病気をしたり、知り合いがリストラにあったり…


何とかできないものかなぁって思うんですが、なかなか上手くいかなくて…

焦るとなおさらダメですね。特に最近はブログやホームページでの噂が

先走りしてしまい、あっという間に波紋が広がったりします。


でも、そんな時はドーンと気持ちを落ち着けて「なるようになる!」位の気持ちで

いたほうが、案外上手くいったりするものです。


私もこのブログに登場する弟の事で何年も悩み続けました。もちろん今も色々

悩んでいますが、前より遥かに楽になった気がします。

「事実を受け止め、なるようになるさ!」って思ったら。


皆さんもちょっと一休みして、スピードを落としてみませんか?

今まで見えなかった景色が見えてくるかもしれませんよ。


※次回は前回の続きに戻ります!

入学式の日、黄色の帽子に大きいランドセル。

今度は幼稚園の時と違い、家から学校までが近い。しかし、朝は必ず母が送っていた。

この朝の登校時がフミオが社会で生きていくための重要な授業であると私が知ったのは、もっとあとのことだった。

「車や自転車は怖いもの」とか、「赤信号では止まりなさい」とか、「雨の時は傘に気をつける」とか、さまざまな事をふみおに教えた。

フミオが社会で生きていくために…。

つづく…

フミオが小学生にあがるとき一つの問題があった。

普通の小学校にいくか、養護学校か。どちらの学校に通わせるかに両親は迷った。私は普通の小学校へ通うのは無理だと思った。しかし、できれば普通の子達と同じ環境で育てたいという両親の思いは、養護学校に抵抗を持った。

結局フミオが通うことになったのは、普通(この呼び方が一種の偏見かもしれない)の小学校の「特殊学級」と呼ばれるところだった。

「特殊学級」、私はこの呼び方があまり好きではない。最近では「なかよし学級」などという呼び方もあるが。

この時、母は地元テレビのニュース番組のインタビューを受けた。「特殊学級」のことを取り上げた特集のようだったが、当時の私にはよくわからなかった。

なぜ、テレビでも特別扱いするのか?...

つづく…

次の日からしばらく、フミオは自転車に乗れなかった。

自転車の車輪の横の棒がぐにゃりと曲がり車輪が回らなくなっていたからだ。フミオはそれを自分で直そうと思っていたのだろう。じっと見つめては車輪を触っていた。私はなんだかかわいそうな気がして、それを元に戻してやった。フミオは喜びニコニコしながら自転車に乗った。

しかし、それがまずかった。また、フミオがいなくなった。ただ、今度は母も用心していたので早く気づいた。川の方に向かうフミオの後姿に追いついた。

母は声をかけようとしたがそれをやめた。このまま後ろを付いて行ってフミオがどこまで行くのか確かめてやろうとしたのだ。

例のごとく川まで行き、国道沿いに出て、ひたすら自転車をフミオは漕いでいた。周りをきょろきょろ見ながら自転車を漕いでいた。フミオはこうやって一人で冒険をしていたのだ。

その後、母が厳しく叱ってからは、フミオは遠くへ行かなくなった。

幼いフミオの大冒険はこうして終わった。

その後フミオは2台の自転車を乗り継いだが、今はほとんど乗らない。

つづく…