7時半を回った頃、近所の人達も集まっていた時、100メートル位先のオレンジ色の街燈の下に自転車を押しながらゆっくり歩く小さな人影が見えた。

「フミオー。」

父と私は叫びに近い声で走っていった。その時母は、まだ別の所を探していた。

フミオの側まで行くと何か様子がおかしい。よく見ると自転車の前のタイヤがパンクしている。フミオも裸足で全身びっしょり濡れて、ひどく疲れきっている。きっと増水した川の中を面白がって走っていたのだろう。私達の顔を見ても声も出さない位疲れきっていた。父はフミオを抱きかかえ、私は自転車を押した。

重い。パンクした自転車がこんなに重いなんて。一体小さなフミオはどれ位の距離をこの自転車を押して歩いて来たのだろう。フミオの姿が見えた方向は、私と母が探した川とは反対の方向だった。

父が集まってくれた人達にお礼を言っていた。警察にも報告した。

やがて母が疲れきって戻って来た。そして、フミオの自転車を見るなり、「この!この!」と自転車の車輪の部分を蹴り始めた。物凄い顔つきで。そして泣いた。その時初めて母の流れる涙を見た。

8時を過ぎた頃、4人で夕食を食べた。テレビはついていたが音が耳に入ってこない感じがした。あまり会話はなかった。

つづく…


フミオの4歳の誕生日に両親は自転車を贈った。

ボタンを押すと「ピーッ」と音がするベルがついていた。両親からの贈り物にフミオはとても喜んだ。幼稚園から戻ると毎日暗くなるまで自転車に乗っていた。初めの頃自転車には補助輪が付いていたが、日に日に乗るのが上達していくフミオが補助輪を必要としなくなったのはそれから数ヶ月後だった。 

雨の日以外は家の前の数十メートルの直線を行ったり来たりしていた。そのうち少しづつフミオは遠くまで行くようになった。遠くといってもすぐ近所だったので母も特別心配もしていなかった。

ある梅雨の日、毎日の雨で大好きな自転車に乗れなくてフミオは空ばかり見ていた。きっと「あめ、はやくやまないかなー。じてんしゃにのりたいなー。」と思っていたに違いない。しかし、雨はしばらく続いた。

やっと雨がやんだ日。きっと、幼稚園にいる時から楽しみにしていたのだろう。フミオは喜んで自転車に乗った。幼稚園から帰って来るなり着替えるのもそこそこ、シャツにパンツ一枚で。久しぶりだし、家の前と思い母も大目に見ていたようだ。

4時を少し回っていた。

母は夕食の準備をしていたが、ふと耳をすましてみると、今までしていた自転車の音と、フミオの声がしない。外に出てしばらく待ってみるが戻って来ない。辺りは薄暗くなっていた。私と母は手分けをして近所を探したがどこにもいない。近所の人に聞くと、どうやら川の方に行ったようだということがわかった。

近くに大きな川があった。母と二人で川の方へ行ってみた。川は連日の雨で増水していて道にも水が溜まっていた。そこで遊んでいた子供達に聞いてみると、「パンツいっちょで向こうの方に行きよったよ」という返事。増水した水の為、道と川の境もはっきりしない。下手したら川に落ちてしまう。母はずぶ濡れになりながら、フミオの行ったであろう方へ探しにいった。私は父を呼びに仕事場へ走った。父は近所で魚屋を営んでいた。

私と母は自転車で、父は車でそこらじゅうを探した。7時過ぎ、父は警察に連絡した。いなくなった時の様子、格好、名前等を伝え、最後にこう付け加えた。


「その子は障害を持っていてしゃべれません。こちらが見つけない限り助けを求めたりしません。よろしくお願いします。」...いつもと少し違う口調で。

つづく

フミオの意外な一面を知ったのは運動会の時だった。

   家族でフミオの応援に行った。そこで見たフミオは勇ましかった。
何種目かの競技に出ていたがすべて一等賞。私や両親に似ず運動神経が良さそうだ。
余裕の表情で走っている。疲れた様子もない。しかし、そこに落とし穴があった。


 運動神経は良いのだが、疲れたり、痛かったりしても表情に出さないのだ。私達は勘違いしていた
こんなことがあった。


 フミオが一人で遊んでいた時、フミオが自分の足を触っていた。

私は不思議に思いそばに行ってみるとスネの辺りが赤くなっていた。「血が出てる。」よく見ると肉が抉れているようだ。遊んでいる時に怪我をしたのだろう。私はすぐに母を呼びにいき、病院へ連れて行った。傷は5針も縫う深いものだった。傷口に麻酔を打たれるのを見ながら小さく「あー」と言いながらじっと見ている。

しかし、泣かない…


次の日、足の包帯が取れかけていたので巻き直してやろうとしたらフミオが嫌がった。
「ん?何かおかしい」そう思い傷口を見ると、5針縫った痛々しい跡はあるが傷口を塞ぐ糸が無い。フミオは自分で糸を取ってしまったようだ。そのおかげで傷口はまた広がってしまった。この時の傷跡はいまもフミオの足に残っている。
そこを指差すと「痛―っ」と言う。


その時の痛みはフミオの記憶の中にいまも残っているようだ。

フミオが幼稚園にいく年頃になった。

フミオが通う幼稚園は「ゆかり園」という、フミオのような障害を持つ子が大勢通っている幼稚園だった。家からかなり遠かったのでバスが近くまで迎えに来ていた。そのバスのところまでフミオを送るため、母は自転車を覚えた。それまで全く乗れなかった自転車をフミオの為に練習した。一人で乗るのさえ難しいのに、フミオを後ろに乗せていかなければならないのだから、その練習は凄まじいものだった。

フミオが幼稚園にいくことになって、両親には一つ心配があった。

初めての集団生活。一番大きな問題がトイレであった。いままで家でしかトイレにいったことがない。そして必ず母がそばにいた。はたして大丈夫だろうか。

いよいよ初めての通園日。私も母についてバスのところまでいった。フミオは少し不安な様子だった。やがてバスがやってきてみんなそれぞれ親の手を離れバスに乗り込んでいく。泣き出す子もいる。フミオは窓際の席にちょこんと座り窓からこちらを見ている。不安げな表情だが泣かなかった。それがかえって母と私を不安にさせた。フミオはバスがどこに行くかもわからないだろう。ただバスに乗ってドライブと思っているかも知れない。

バスが発車すると親達は一斉に手を振った。母も手を振っていた。その目にはかすかに涙が浮かんでいた。

午後になりフミオが帰ってきた。初めて親元を離れての生活に少し戸惑ったかもしれないが、とにかく元気に帰ってきた。そして、驚いたことが起こったのは家についてからのことだった。

家に入るとフミオがなにも言わず一人でトイレに入っていく。驚いた母がトイレの扉を開けると、女性がトイレに座るような格好だがちゃんと一人でしている。紙も使い最後に水を流す。完璧だった。

たった一日で一人でトイレに行けなかったフミオがここまで出来る。両親は「ゆかり園」に通わせて本当に良かったと第一日目にして思った。

 翌日からもフミオは元気に「ゆかり園」に通った。そして、母は毎日自転車で送り迎えをした。フミオは一日も休まなかった。

つづく…

「バイビー」 一昔どころか、かなり前にテレビで流行った言葉だが、我が家ではそのずいぶん前から耳にしていた。ただし、正確には「ばーびー」という言葉を。むろん「さよなら」という意味だが、我が家ではもっと重要な意味がある。

 

「フミオ」 昭和47年生まれ。北村家次男。私の弟。

彼には一つ特殊な事情があった。

フミオは幼い頃から言葉を発することが出来ない。声が出ないのではない。世間ではフミオ達のことを精神薄弱者もしくは知的障害者と呼ぶ。

 

 「ばーびー」 フミオくんの声がする。

 フミオくんは車が大好き

 車に乗っていればいつもごきげん

 お兄ちゃんはあっちの学校 

 ぼくはこっちのがっこう

 なんでいっしょじゃないのかな?

 つまんないな

 

この詩は私達の父がフミオの幼稚園の卒園記念に作った詩である。私が小学生の頃一度見ただけなので、ここまでしか思い出せないが、実際はまだ長い詩である。私の記憶では、この「ばーびー」という言葉がフミオの最初に「覚えた」言葉だと思う。それまでは、それこそオウム返ししか出来なかったのが、自分の意志で声に出していた。

この言葉のすごいところは、いく通りもの意味を持つことで、例えばテレビで怖い場面の時、なにかイタズラをする時に私達にそこにいてほしくない時、もちろんさよならの時。

ただし、これらの意味は私達にしかわからない。しかし、これだけで十分会話が出来る。私達はこの言葉を大いに使った。フミオと話をするために。

私が小学生の時、毎朝友人が私を誘いに来てくれていたが、ある朝いつものように友人が私の名前を呼んだ時、いつもは私が返事をするのだが、その日はフミオが私より早く「はーい」と答えた。初めてだった。

朝の慌しい中、家族は全員笑顔だった。

つづく


知的障害ってどのような事かご存知ですか?


世の中ではたくさんの書籍が出ていて様々な事が書かれています。

しかし、現実はそんな感じではなかったりします。

もっと大変な事や、普通では考えられないような楽しい事があったり…


私の弟は障害をもっています。

その弟と、私達家族の辿ってきた道と、これから先の歩んでいく道を

皆さんに紹介していきたいと思います…


登場人物


○私………著者である私です。

○フミオ… 私の弟です。

○父………私の父です。

○母………私の母です。


まずは少々前の出来事からお話します…