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今回は、資料入手のお話と、それによってわかった戦没者の一部を掲載します。

 

 

さて、今回の記事の元ネタとなる資料の登場です。

 

先日、あまりにも大きな犠牲を払って、こんなものを手に入れました。

それは..................

 

 

歩兵第22連隊の在営記念アルバムです!!!

 

しかも、ちょうど今ブログで戦没者を取り扱っている、第二次上海事変前後のものです。

たこーつきましたで......おれの大蔵省は、大臣もろとも消し飛びました。

 

 

永津部隊」こと歩兵第22連隊は、第11師団(山室部隊)隷下にあって、1937年の第二次上海事変に出動しました。

今回入手したアルバムには、当時歩兵第22聯隊の連隊長だった、永津佐比重の写真がありました。

ひげがぼーぼーなので、上海事変から帰還した直後に撮られたものだと思われます。

 

 

関東軍参謀、参謀本部課長、第20師団長などを経て、終戦時は済州島(チェジュ島)に配備されていた第58軍司令官でした。(陸軍中将)

 

余談ですがこの第58軍の隷下に、第111師団という部隊がありました。

愛媛県の特徴的な戦没者の発生源に「第10東予丸」の沈没事故があります。

復員軍人と民間人をあわせて、定員の約三倍の人数を乗せていたこの船は、1945年11月6日、転覆し沈没しました。

この船には、復員途上であったこの師団の兵士(愛媛出身者)が乗船しており、多くが亡くなりました。

私の親戚も、終戦直後に広島に買い出しに出て、尾道・・・今治の連絡船であるこの船に便乗し、亡くなっています。

 

 

県の戦没者名鑑を見ていると、この事故で亡くなった方をしばしば目にします。

1945年11月6日...........

 

さて、アルバムに話を戻しましょう。

 

 

 

ほかにも、兵隊さんのポートレートがいくつも貼られていました。

笑顔の写真はやっぱりいいですね.......

しかし残念ながら、そのほとんどにキャプションがありませんでした。

これでは泥臭い作業によって身につけた「姓名を見ればその人が第二次上海事変の22連隊で戦没したか否か判定できる能力」が活かせません。

1936年か1937年度の入営者のようなので、ここに写真が貼られている人の多くは、戦死傷したと思われます。

 

さて、こうしてほとんどの写真から情報を得ることには失敗しましたが、その中に奇跡の一品がありました。

 

 

大きな1枚の集合写真に.......

 

 

人名を参照する紙が揃って現存していたのです!!!!!

 

早速一人一人名前を見た結果、この写真に写っている94名のうち、17名が第二次上海事変で戦没していたことがわかりました。

すでに過去の記事で写真がわかっている方も数名いるので、合わせてこの記事に貼っていきたいと思います。

「ほんとだ同じ顔してる!」と感動しました。

 

この集合写真に載っていた17名について、以下に

写真、姓名、戦没年月日、階級(進級後)の順で載せていきます。

 

 

津田末広

1937年8月25日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

伊賀理森

1937年8月25日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

渡邊有満

1937年8月25日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

酒井恵

1937年8月25日

陸軍歩兵上等兵

 

 

 

矢野義広

1937年8月25日

陸軍歩兵上等兵

 

 

 

 

西原鶴一

1937年8月25日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

白石範四郎

1937年8月28日

陸軍歩兵上等兵

 

 

 

中川国美

1937年9月24日

陸軍歩兵伍長

※後半に詳細あり

 

 

 

岡本正春

1937年9月24日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

伊藤遠三郎

1937年9月26日

陸軍歩兵曹長

第一次上海事変にも参加。

この時の論功行賞で授与された勲八等白色桐葉章、昭和六年乃至九年事変従軍記章をつけている。

=行賞が掲載された官報

 

 

 

 

土居淳二

1937年9月26日

陸軍歩兵上等兵

 

 

 

有元進

1937年9月26日

陸軍歩兵上等兵

 

 

 

鈴木甫夫

1937年9月27日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

加藤弥久里

1937年11月13日

陸軍歩兵少佐

少尉候補者出身。戦没当時は22連隊中隊長。

※後半に詳細あり

 

 

 

川上茂

1937年11月13日

陸軍歩兵曹長

1934年11月20日、熊本陸軍教導学校を卒業。

 

 

 

白岡唯一

1937年11月13日

陸軍歩兵伍長

 

 

 

清水幸八

1937年12月14日

陸軍歩兵上等兵

 

 

加藤弥久里について

今回入手した写真のなかで特に注目していたのが、加藤弥久里の写真です。

私がアルバムを見つけた日から、私の友人はしばしばこの名前を耳にしていたと思います。

最後に、彼のエピソードを少しまとめようと思います。

 

=「ラッキー部隊長」こと加藤弥久里

 

この人は大正期から軍隊にいた、いわゆる叩き上げの将校でした。

資料を見る限り、大正3年(1914)にはすでに軍隊にいたようです。

20年以上軍隊に.......すごすぎます。

 

彼は、第二次上海事変に中隊長として出征します。

11月13日に戦死するまで、七度も負傷していたといいます。

 

=永津部隊長こと永津佐比重

 

連隊長永津大佐は、事変があった1937年の8月に、就任したばかりでした。

出動後、加藤をはじめとして、頭部を二度負傷しながらも白鉢巻の包帯姿で、腰が曲がるまで前線で頑張る白井恒春(のち太平洋戦争で戦死)、負傷が完治しないのに、ボロボロの身で病院を脱走して戦場に戻ったある下士官(その後戦死)など、22連隊の兵士の奮戦は、永津大佐を驚かせました。

 

 

「戦盲記」を著した原田末一は、加藤の中隊の小隊長でした。

加藤が戦死した戦闘にも参加しています。

 

「飛び込めツ!」

私は突差にさう号令をかけた。兵隊は前後も顧みず一散に水中に飛び込んだ。

 

・・・

 

部下の兵が一人倒れた。

「天皇陛下万歳!」

その声が終るか終らないうちに、もう彼の姿は泥水の中に没し去る。

又一人倒れた。ウムツと一声唸めいたまま水中に消える。何処かで、

「お母さん!」

と叫ぶ声がする。又誰か倒れたのであろう。みるみるうちにあたりの水は血の海と化して行つた。

(原田末一「戦盲記」1943年)

 

 

ある時、見かねた永津連隊長が後退を命じると、

加藤

 

「命令に背くのは悪いですが、私が親父として退がるのは兵が気落ちするから死んでも嫌だ」

 

と、後送されるのを拒みました。

 

=加藤弥久里。

1937年11月13日戦死。

 

加藤は戦死する作戦の直前、彼の義父に宛てて手紙を書きました。

そのとき、

「今度こそ最後だ」

と記した通信紙をわざわざ投函したそうです。

 

 

 

国内にいた加藤の義父は、部下(中川国美、9月24日に戦死)遺族の訪問を受けました。

 

中川国美は6人兄弟で、そのうち4人が出征していました。

以下は、彼の絶筆となった手紙の一部です。

 

=中川国美(上浮穴郡面河村出身)。

1937年9月24日戦死。

 

揚子江沿岸に大敵軍を攻撃して前進し、先だった沢山の懐かしい戦友をしのんで涙の追撃を連戦して本日無事某地点にまで前進しました。一歩前、一足先、一分後の生命も不明の戦地の夢路......

 

・・・

 

戦地の模様は筆や口では尽せません。人間の死体が、そこここで暑さの折りで腐り、変なニオイで見られません。日々戦友は負傷し、あるいは戦死......

 

・・・

 

実にものさみしい思いが致します。

 

中川の最後を、手紙で遺族に知らせた戦友によれば、加藤は虫の息となった中川の手を取り、

「中川、残念なことをした。しかしおれもそのうちお前の後を追うことになるだろう。今度は靖国神社で会おうぜ」

と言ったといいます。

 

加藤の、兵隊への愛情が感じられるエピソードだと思います。

 

彼の父もまた日露戦争に参加しており、息子も陸軍士官学校に入ったという、三世代にわたる軍人一家でした。

 

=加藤弥久里。

1937年11月13日戦死。

 

 

今回は、アルバム入手の報告がてら、人についてちょっとした文章を書いてみました。

 

 

今回はここまでになります。

 

以下、いつものおねがいです。

 

判明し次第、このリストには22連隊戦没者の写真を追加していきたいと考えています。

現在手持ちの資料からある程度確認できていますが、総数のうち2割も集まっていません。

再度のおしらせになりますが、もしご遺族や、情報・資料をお持ちの方がいて、差し支えなければ、コメントまたはご連絡ください。

 

また、主として愛媛県人で編成されていた「歩兵第二十二連隊」、もしくは、愛媛県に本籍を持っていた陸軍軍人の方に関しても調査をしています。

関連する情報・資料・ご質問等について、もしご連絡をいただける場合、以下のXアカウントまでお願いいたします。

 

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ここまでご覧いただき、ありがとうございました。