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レオヤナギさん!どちらへ?

ニュース、サッカー、音楽、etc..。自分自身のメモ帳がわりに書いて行くつもりです。転記の際、自分自身が内容を理解する為また記憶する為に、下線や色分けを独断でしております。


武田邦彦(中部大学)氏のブログより



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平成25年1月12日

  体罰考(3)
 【体罰とはなにか?・・誰が「体罰」を決めるのか?】


  「taibatu3tdyno.41-(14:40).mp3」をダウンロード

先回、一言で体罰といってもその内容は様々であることに触れました. 多くの人は以下に列挙した体罰の内、体罰と感じるのはどの辺でしょうか? なお、学校教育法第11条の体罰規定には体罰の具体的なことは記載されていません。文科省の指導がありますが、教員の検討がない役人側の一方的なものなので、このシリーズでは取り上げないことにしています。


  1) 自分が実験した時にこぼした薬品を本人に綺麗にさせる(顧問弁護士は体罰と認定した)、

  2) 給食当番が忘れものをしたので、配膳室まで取りに行かせる、

  3) 生徒に黒板に書かせた文字を生徒に消させる(先生が消すのでは無く)、

  4) 重要な忘れ物をした生徒に家まで取りに行かせる、

  5) 授業に遅れた学生を10分間だけ立たせておく、

  6) 授業中に頻繁に携帯電話をかけに立つ学生の背中を押して出て行かせる、

  7) 授業中に4人ぐらいで大声で私語をし注意しても止めないので、襟首をもって廊下に出す、

  8) がんばれよ!と言って肩を叩く、
  9) 隣の生徒の答案を盗み見ている生徒の頭を持って見ないようにさせる、

 10) ダラダラ練習している生徒に気合いを入れるためにグラウンドを3周させる、

 11) キャプテンとしての自覚を持たせようと平手で数回、頬を叩く、

 12) 4月から7月までまったく大学に来ない学生を、先生が卒論を合格できないと心配して夏休みに大学に出させる(これは先生が訴えられた例がある)



それぞれの人が違う考えを持っています.つまり、かつて教育は必ず体罰を伴うものでしたが、いつの日からか良くわからないし、「体罰がいけない」と言い出したのは日教組かも知れませんが、現在では「体罰はダメ」という事になっています。

それでは、教育現場で具体的に起こる問題について、かつては体罰で解決していたものの代わりは何かという議論は進んでいません。


 1) 口でいくら注意しても大声で私語をするグループがいて、授業が続けられないときにどうするか?

 2) 実験の後片付けをしない生徒を放置しておくと、ブロークン・ウィンドウズ現象で実験ができなくなるけれど、それをどうするか?

 3) チームプレーのスポーツで、ダラダラ練習する生徒がいて、多くの生徒が不満を持っている時に生徒を強制的に止めさせるか?

 4) 生徒や学生が苦痛に感じるほど、繰り返し口で説得する時に、どこまでが「口の暴力」か?



この社会に「警察」などの「力による強制力」が必要なように教育現場にも「力」でなければ解決がしないものがあります。そのことを良く議論しないで、単に「体罰はダメ」と言っていると、本当の体罰(負傷するまで殴るなど)を止めることはできないと思います。

「無理を通せば道理引っ込む」と言うことでしょう。私は「フランス流」、つまり、「どの体罰はいけない」と具体的に社会が決めるのでは無く、体罰の意味、教育の意味、先生の待遇、先生に考えてもらうということを通じて、学校の中から改善していくことの方が大切と思います。




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武田邦彦(中部大学)氏のブログより



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平成25年1月11日

      体罰考(2)「心の教育と頭の教育」

  「taibatu2tdyno.40-(11:48).mp3」をダウンロード

人間を教育するというのは、なんでも「不完全な人を、やや完全な方向に進ませる」ということですから、なかなか難しいものです。私も20年の教師生活を経て、その難しさを身にしみて感じています。

あるとき、私は指導に悩み、毎週、教会に通って牧師様のお話をお聞きし、時には聖書の勉強会に出ました。それは「自分の前を通りすぎる悩む学生」を助けることができないのです。その学生は私から見ると、ある考えにとらわれ、錯覚し、悩み、ズルズルと悪い方向に進んでいるのですが、それを直すことができないのです。

イエス・キリストが道ばたで会った悩む人を一言で解決してあげていたのを読み、どうしたらあのようになれるのか、万分の一でも勉強したいと思ったのです。

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教育方法の分類はいろいろありますが、一つに「心のほうから教育する」というのと「頭のほうから教育する」というのがあります。人間は複雑な生物で、頭が良いのですが、それでいて頭で理解する事が難しい生物でもあります。

そこで、教育をするに際して、「心からする」という方法があります。これは良く「門を叩く」という方法で、ある先生の門を叩いて入門させてもらっても、肝心なことはさっぱり教えてくれず、毎日、掃き掃除、拭き掃除、風呂の準備をさせられて1年・・・という事になります。

この教育方法は「これから学ぶことを頭で理解するための心の準備」でもあります。そして教育が始まっても「座禅、水垢離、荒修行」などによってさらに「体と心を鍛える」ことまでします。

このような教育方法は、あまり深く考えない場合は、教育をする方(先生)のワガママだと言われることもあり、また、日本でも知識人などが特にそのように考える傾向があります。

大学で研究をさせるときに、掃除や後片付けをしないとその場で、研究を止めさせていたことがあり、それについてある大学の顧問弁護士から「大学と学生の間の契約内容に反する」と注意されたことがあります。

弁護士の言うのは「学生は「勉強」するために授業料を納めているのであって、学生が散らかした実験器具を整備するのは大学の役目であり、それは人を雇って掃除させるべきだ」という趣旨でした。(学校教育法第11条の体罰規定には体罰の具体的なことは記載されていない。文科省の指導があるが、一方的なものなので、このシリーズでは取り上げない。)

私の研究経験では、自分が使う実験器具や材料などは自分の魂としてそろえないと実験自体がうまくいかないのです.ちょうど、お寿司屋さんが包丁とサカナを大切にするようなものですが、それは現代契約論では含まれていないのです。

研究というのは未知のことに挑戦するので、とても心が乱れるので、それを克服するための訓練が必要です。それはあるいは水垢離であり、荒修行であり、さらに日頃の身の回りの物に対する愛着でもあります.それらが最後の苦しい場面で研究を支えます。その第一歩が「片付け」なのですが、それはまだ教育方法として定型化されていないので、弁護士には理解できなかったと言うことです。

このブログにも何回か書いたように、元々教育の目的というのは学力とかスポーツの能力を高めることでは無く、その人間の人としての力を上げるものですから、その手段として授業を受けさせたり、実験したり、あるいはバスケットボールを教えているに過ぎないのです。

私たちは「心の教育」が目的で、そのために「頭の教育や体の教育」をしているということをもう一度、教育基本法(旧条文)を示して、今回の体罰問題を考えてみたいと思います。

「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

2013年正月に起こった高校の体罰と自殺の問題は、この条文と比較してどこに問題点があるのでしょうか?





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武田邦彦(中部大学)氏のブログより



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平成25年1月11日

体罰考(1)「異常なことと、考えなければならないこと」

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今から10年ほど前に、小学生の自殺が「流行」したことがありました。毎日のように小学生の自殺が報道され、「自殺など報道するから、それをまねる小学生が出るのだ」との批判もでたぐらいでした。

その時、私は「社会現象とは、ある分布の中での特別な状態を示すと全体像がわかるから」という解説をしたことがあります。少し難しいので解説をします。

たとえば「世の中がすさんでいるか」とか「小学生は幸福か」ということを調べようとすると、一つは、小学生全体にアンケートを出して調査するという方法があります。でも、理想的なように見えてあまり成功しません。

もう一つは、小学生全体では無く、特殊に不幸な例(たとえば自殺)を調べて、それが増えれば小学生の幸福度が下がっていると判断する方法です。この方法は「小学生の幸福度に関する「分布」が変わらない限り、特殊な例から平均的な動きを知ることができる」という原理に基づいているので、学問的にも間違ってはいません。

「スポーツが盛んか」と言うことはオリンピックのメダルの数である程度はわかりますが、その時に、特殊な補助金制度などができると、これもまた素直に比例しているかどうかはわかりません。

いずれにしても、直接全体を調査するのと、一部の特別な例を見るのと二つの方法がありますが、いずれも「本来は特殊な例を無くそうとしているのでは無く、全体を良くすれば自然に特殊な例も無くなっていく」という考えが健全なのです。

全体を良くする方法として私が推薦しているのは「芋ずる方式」で、「特殊な悪い人」を罰するのはほどほどにして起き、「特殊に良い人」を目立つようにすると、全体が「良い方に引きずられる」」と言うことです。

2013年が明けてすぐ、問題になった高校2年生の体罰と自殺の問題について、現在の日本では問題となった先生のバッシングが盛んですが、特殊な例ですから、それを通じて現代の日本のスポーツの教育問題の変化を考え、むしろ「芋ずる式の議論」をする方が良いと思います。

時間があればシリーズでこの問題を考えていきたいと思っています。




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