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レオヤナギさん!どちらへ?

ニュース、サッカー、音楽、etc..。自分自身のメモ帳がわりに書いて行くつもりです。転記の際、自分自身が内容を理解する為また記憶する為に、下線や色分けを独断でしております。


板垣英憲氏の「マスコミに出ない政治経済の裏話」より



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2013年01月20日 03時37分53秒

安倍・麻生コンビの「価値の外交」と、鳩山単独の「友愛外交」のどちらが正しいか?

◆安倍晋三首相・麻生太郎副総理(元首相)が主軸とする日米同盟ベッタリの「価値の外交」と、たとえ「国賊」と罵倒されようとも、どこ吹く風で、鳩山由起夫元首相が推進している「友愛外交」のどちらが本当の意味での「国益」になるのか。いま2つの外交路線が激しくぶつかり合っている。

 安倍・麻生コンビの「価値の外交」は、どちらかと言えば、中国、ロシア、イスラム諸国を基本的に「敵視」する外交路線だ。

かたや鳩山由紀夫元首相の「友愛外交」は、フリーメーソン・イルミナティが「ワンワールド」をめざして、「フラタナティ(友愛)」を唱え、世界平和を築こうとしている路線上にある。

だから、日米同盟偏重の外務省の外交路線とは相対立している。


◆安倍・麻生コンビの「価値の外交」は、今回の「アルジェリア人質事件」でその限界欠陥を露呈してしまった。

 安倍晋三首相がいくらわめき、懇願してもアルジェリアのセラール首相は、「これが最善の手段だ」と言って「武装攻撃」を止めなかった。

 それどころか、外務省主導の情報収集も全く「結果」を出せず、「日本人の安否」を含めて肝心要の情報を入手できないでいる。

 こればかりではない。チュニジアの「ジャスミン革命」が隣国リビア波及して内線状態になったとき、日本政府は、リビアに在住の日本人を助けることができず、政府専用機を派遣するか否かを検討するのに時間がかかり何も決められず、結局、カダフィ大佐が殺されて内戦は終わった。

 この内戦中、中国北京政府が中国人8000人を救出したのをはじめ、その他の国も救出に成功しているという。日本政府の対応は今回も同様で、手も足も出せなかった。


外交の基本は、「情報を集めることである

このため、外交官の活動の大半は、「スパイ活動」にあるのに、「儀典外交」にうつつを抜かして、高級ワインばかりをカブ飲みするハデな生活にドップリつかっている。従って、世界の危険地帯での「情報活動」はほとんど行なっていないのが実情だという。

日米同盟を基軸にしているので、イスラム世界の情報は、かなり欠乏している。それでは、本当の意味での外交にはならず、日本の外交官や外交に携わっている国会議員は、はっきり言って「国益」を守ろうとしない「国賊」と言って過言ではない。

 これに対して、鳩山由紀夫元首相は、日中外交が行き詰まり、まかり間違えれば「日中戦争」にも発展しかねない最悪の状況のなかで、中国から「大切な貴賓」として招待されて、意見交換している。この数少ない「外交の糸」をプッツンさせてしまうと、それこそ大変なことになる。

 思い出していただきたい。

 菅直人元首相は、横浜で開かれたAPECのとき、胡錦濤国家主席と廊下の片隅で会ってもらったまではよかったが、挨拶をするのに「紙切れ」に書いた文章を読んで、相手を呆れさせた。

 野田佳彦前首相は、ウラジオストックAPECで胡錦濤国家主席から「尖閣諸島の国有化はやめてもらいたい」と要請を受けていたにもかかわらず、帰国してすぐに「国有化」を閣議決定してしまい。相手を完全に裏切り、信頼を損ねた。以後、胡錦濤国家主席には相手にされず、温家宝首相には、国際会議の場で、目も合わせてもらえず、口を聞いてももらえなかった。「日中外交」をメチャクチャにしたのである。

 外交というものは、あらゆる手を尽くして最低の情報ルートだけは確保しておく必要がある。

 この際、鳩山由紀夫元首相の「友愛外交」と安倍・麻生コンビの「価値の外交」の比較を鳩山由起夫元首相の口から聞いてみることも無駄ではない。

 拙著「友愛革命―鳩山由紀夫の素顔」(共栄書房刊)から引用しておこう。


 ■「価値の外交という発想に陥ると危ない」

 鳩山由紀夫は、「価値の外交」を展開し、「不安定の弧」を「自由と繁栄の弧」にするだけでは、世界平和は実現できないと考える。真の世界平和は、特定の地域の自由と繁栄を望むだけでは、実現できない。「友愛外交」こそが、その目的を果たせると自負しているのである。

「私は『価値の外交』ではなく、『友愛の外交』だろうと思っておりまして、むしろ、価値観の異なる人たちとの間にこそ外交が必要であり、ある意味では、社会体制が違う、経済構造も違う、そういう人たちとどううまく付き合っていくかが、外交だと思います。自由と繁栄、価値を等しくする人たちだけで周りを固めて仲良くやろうという発想は、本来の外交であるべきではない。『価値の外交』などと言われたとき、実は、『これは違うな』と思っておりました」

 このため、鳩山由紀夫と麻生太郎が次期総選挙の戦場で、外交防衛政策をめぐり激しく干戈を交え、火花を散らすことになるのは、どうしても避けがたいのである。

 それは、「海洋国家論者」に見える麻生太郎が、「自由と繋栄の弧」から、「大陸国家」であるロシアや中国を除外しているかのような外交政策を展開しようとしていることに最大の原因がある。鳩山由紀夫は、インタビューのなかでこう力説していた。

「外務省がどこまで、価値の外交にこだわっているかはわかりませんが、私は、価値の外交という発想に陥ると危ないなとそう思っていまして、あえてロシアや中国を弧から外しているわけですから、そうすると、彼らから見れば、外されたのは何なんだという発想になるわけですよ。そんなことをあえて外交で言う必要はなくて、むしろ、そういう人たちと、どううまく付き合うようにするかということが大事です。だからこれからロシアというのは、資源外交という意味でも、絶対こことはうまく付き合ったほうがいいと、私は思います」 





↑<転記終了>







武田邦彦(中部大学)氏のブログより



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平成25年1月17日

   「死刑は廃止すべきか・・・
   過去(起こったこと)と未来(これから)の分離」


  「sikeitdyno.62-(7:43).mp3」をダウンロード

「体罰をどうするか?」ということと「死刑を廃止すべきか?」という議論は実に似ています。つまり、過去=体罰事件や殺人事件の後始末、と 未来=教育をよくしたり安全な社会を作る、という二つのことが混合して議論されるからです。

殺人事件
1)殺した人がそのままでは殺された人が浮かばれない(その通りで過去の始末)、
2)殺人犯を死刑にしても殺人は減らない(その通りで未来のこと)

両方とも誠にその通りで、反論は余りありません。問題はこの2つが混乱することです。死刑廃止論の人は2)だけを強調します。「死刑をしても殺人事件は減らない」・・・それはそうなのです。このブログに書いたように、人間の行動の分布は決まっていますので、死刑をしても殺人は減らないのです。

でも、それでは世の中の人の感情が許しません。殺された人はこの世にいないのに、「悪いことをしても、その人を罰しても世の中が良くならないから罰しない」というのでは「罰することは未来のため」という事になるからです。

たとえば、教室で悪さをした子どもを「罰する」というのは、必ずしも教室を良くしようというのでは無く、「行為自体が罰に値する」ということなのです。罰することが教室を良くしようが変わらないとしても、それによって、「悪いこと」が良くなるわけではありません。

なにが悪いのかをハッキリさせるためには、「悪は罰する」という事も必要でしょう。そして悪の程度に応じて罰も強くなるとすると、殺人は死刑でなにも矛盾はありません。

今度の体罰から自殺になった事件で、私が「この事件を参考にして教育をよくするには」という議論をしますと、「教師のやったことはわるいことなのだ」という反論を頂きます。まったく同感です。

もし体罰が行きすぎであると言うことになったら、教師が罰せられるのは当然です。でも教師を罰したから教育が良くなるということではありません。過去の精算未来の改善質が違うからです。


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このような混乱のもっと酷いのが水俣病でした。だから水俣病がなんの参考にもならずに、その後の公害事件となり、多くの人が犠牲になりました。

1)過去の清算・・・国に過失があり間違ったのに、裁判官が国は身内なので、民間会社をかわりに「無過失責任」と称して罰した

2)未来の改善・・・未知のことや量が大幅に変わったときには気をつけるということをまったくやらなかった(真なる原因を追及しなかった)。







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武田邦彦(中部大学)氏のブログより



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平成25年1月16日

     体罰考(6)「学校教育法と文部省通達」

体罰のことをすでに5回も書いてきましたが、その時に、普通なら最初に書くべきこと「法律ではどのように決まっているのか?」を示しませんでした。今回の問題は「ジックリ考える」ことが大切なので法律から始めると「こう書いてあるじゃないか」ということで終わりになってしまうからです。

現実的にも学校教育法で「体罰はいけない」という事になっていて、その「体罰」の内容を文科省の初等中等教育局長が「指示」をしているという形になっているのです。つまり、教育をする上で、教育をする先生がもっとも良く理解しておかなければならないことを、現場の教育の経験も無く教育もしていないお役人が先生に指示しているという形なのです。

私も中央教育審議会の専門委員としての経験を持っていますが、このような通達を出す時には委員会などで先生方の意見を聞くのが普通ですが、それは形式的に過ぎず、常に「事務局案」=「お役人の案」があり、事前に主要な先生に根回しをして会議を開きますから、いい加減なのです。


  【学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方】

1 体罰について

(5)有形力の行使以外の方法により行われた懲戒については、例えば、以下のような行為は、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常体罰には当たらない。

 ○放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を過ぎても長く留め置く等肉体的苦痛を与えるものは体罰に当たる)。
 ○授業中、教室内に起立させる。
 ○学習課題や清掃活動を課す。
 ○学校当番を多く割り当てる。
 ○立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。



余り示したくないのですが、局長通達を示しました。「教室に子どもを残す」、「立たせる」、「掃除をさせる」、「当番をさせる」、「叱って席に着かせる」などです。あたかも体罰の種類を示しているようで、実は「当たり障りの無いものだけ」を書いてあります。

実際には「叱っても席に着かない場合はどうするか」、「子どもに自覚させるために、何回も立たせているのに直らない」などの場合や、2013年1月に起こったスポーツ部の体罰のように「現実の問題」はすべて回避しています。そして、ここに書かれていること以外のことを先生がしたら文科省は「通達に含まれていなければ禁止された体罰です」と言います。

教育の目的は子どもを立派にすることであり、文科省の利権を守ったり、責任逃れのために教育をするのではありません。現場で本当に問題になること、それを議論しなければならないのです。


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日本人の多くが「世界の国には文部省がある」と思っていますが、文部省がある国も多くは無く、また日本のようにこんな事を通達する文科省などアジアの一部にはありますが、先進国では考えられないことです。

先進国の文科省では、たとえば体罰問題の場合は、先生方に「体罰と教育効果」とか「世界の体罰に対する考え方」などの資料を配り、勉強会を促し、先生自体の見識を高めるようにします。

フランス流というのをここでも紹介しましたが、「教育をする先生方の力を上げることが大切」と明言していて、日本のように先生の上司のような顔をして、指示命令するなどという考えはありません。日本ではどちらかというと先生を「馬鹿にする」という傾向があります。

なんでも「通達」で命令され、それに反するとマスコミがバッシングし、先生をバカにするということが続けば、先生の質が落ちてくることは当然です。つまり日本の現状は「文科省、自治体、教育委員会、マスコミ、国民」がよってたかって先生を追い込み、押しつけ、時間や資料をサービスせず、ただ文句を言って教育の質を下げているということです。

少し言い方を変えれば、国民が悪い教育を希望していると言うことになり、先生もそれに応じて少しずつ悪くなっているというのが現状です。まずは文科省を無くすことが日本の教育改善の第一歩で、現場の先生に良い教育を促す権限の無いサービス機関に変えるのが最善です。

文科省の存在は大学の研究にも大きな歪みをもたらしていますので、それはまた機会を見て書きたいと思います。




↑<転記終了>