「ピース・フィロソフィー・センター」の記事より
http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/09/japanese-translation-of-japan-time.html
<転記開始>↓
Monday, September 26, 2011
鉢呂辞任の疑問:「エリート政治家にはヨソ者の存在が許せない」(ジャパンタイムズ記事翻訳)Japanese Translation of Japan Times Article "Political elite can't stand outsiders"
「死の町」「放射能うつす」発言などにより、福島の被災者の気持ちを傷つけたとして、政治家やメディアから袋叩きにあい、辞めさせられた鉢呂前経産大臣。失礼なことを言ったかもしれないが、辞めさせられるほどのものだったか、という疑問が残る。何よりも不条理なのは、実害は特にもたらしていないその鉢呂氏の後釜として任命されたのは、実害をもたらした内閣の官房長官、枝野氏であったということだ。「直ちに影響はない」という放射線リスク軽視発言で知られ、SPEEDI予測結果を公表せず、避難の遅れによって福島のたくさんの人を被ばくの脅威にさらした内閣の中心人物である。枝野氏をはじめ、野田氏と新内閣の面々が、国会で、また福島において、鉢呂氏の発言に対して謝罪をして回った。これがスケープゴートでなかったら何なのか。他人のことを謝ることは何とも心地のいいことであろう。自分の責任を棚に上げ、自分がいい人になったようなパフォーマンスができる。「死の町」と言った人間よりも、「死の町」をもたらした人間たちをどうしてもっと追及しないのか。原発を推進してきた自民党の議員が鉢呂を非難している姿ほど滑稽なものはなかった。「放射能」発言にしても、最初に報じた人間がその場にはいなかったこと、各社によって鉢呂氏が言ったことになっている発言がばらばらであったことなど、市民のメディアスペース、ツイッターではいつまでも議論が続いている。本人もマスコミも確証が持てない発言によって、一閣僚を引きずり降ろしていいのか。
また、鉢呂氏は、その前にも「原発はゼロになるであろう」という発言で注目されていた。この9月18日ジャパン・タイムズのフィリップ・ブレイザー氏の記事で、官僚エリート主義が支配する政界において、コネも地盤もなく、松下政経塾でもないのに大臣になった鉢呂氏と、非政府団体出身では初て首相になった菅首相の共通点を認識した。そしてもうひとつの共通点として気付いたことは、両氏とも、いずれは原発がゼロになる社会という構想を抱いていたことである。両氏が引きずりおろされた背景には、その構想もあるのではないか。
上記ジャパンタイムズの記事を、酒井泰幸氏の翻訳で紹介します。@PeacePhilosophy
「エリート政治家にはヨソ者の存在が許せない」
フィリップ・ブレイザー
野田新内閣での鉢呂吉雄経済産業大臣の在任期間は閣僚在任期間の最短記録というわけではなかったが、最も物議を醸したことは確かだった。報道メディアは、鉢呂大臣の2つの発言に対する「民衆の怒り」が、彼を辞任に追い込んだのだと報じた。証拠はないので、報道をそのまま受け入れるしかないが。
(写真キャプション)退場する鉢呂吉雄、元経済産業大臣(共同)
発言の一つは、事故を起こした福島原発の周辺地域は「死の町」だったというもので、その地域から避難していた人々の感情を逆なでしたとされるが、メディアは何ヶ月も前からこの地域を同じような言い方で表現してきた。日本のツイッター社会で今も飛び交っているのは、鉢呂大臣の発言で感情を損なったのは民衆ではなく、むしろ東京電力で、彼らは事故によって損害を受けた住民への賠償制度を現在策定作業中なのだ。鉢呂大臣は経産大臣就任を受けての記者会見で、原子力は「原則的に」廃止する方針であると表明した。
鉢呂大臣のもう一つの失言は、福島から帰った後で、放射能を記者らに付けたと冗談を言ったというものだったが、こちらの方がより大きな問題となった。鉢呂大臣が冗談を言ったとされる時、言ったことは オフレコだと彼が思ったのは明らかだが、ジャーナリストの佐藤優がフジテレビで語ったところによれば、日本で何がオフレコで何がそうでないかという原則は「あいまい」で、各メディアが印刷したり放送したりした鉢呂大臣の言葉はみな異なっていたので、鉢呂大臣が具体的に何と言ったのか、あるいは誰が最初にそれを報道すると決めたのかは明らかではない。辞任記者会見での謝罪の中で、彼はその冗談については実際にあったことだと認めなかった。一人の記者が鉢呂大臣の発言に嘲笑的な調子で割り込んだが、別のジャーナリストに怒鳴りつけられた。共同通信の編集者はTBSの番組で、記者会見は質問のための場であって、「公的人物を告発する」ための場ではないと指摘した。問題の冗談は、もし鉢呂大臣が本当に言ったのなら、実に不注意なものだったが、鉢呂大臣の社交的な性格を考えれば、皮肉な衝動などではなく、むしろ場違いな友情の感覚から出たのではなかったか。彼が理解していなかったことは、記者たちは、いかに好意的に見えようとも、このような瞬間を待ち望んでいるということなのである。失言の報道ほど面白いものはないのだから。
TVタレントのダニエル・カール氏はツイッターで鉢呂大臣の発言は「無神経」で彼は「どこかの政治王朝の子孫に違いない」とつぶやいた。だが実際には、鉢呂大臣は国会では珍しく政治的コネや血縁など持たない人物である。彼は北海道の農協で働き、その後日本社会党の推薦で選挙に立候補した。彼の政治経歴を通して、彼は常に農民との密接な関係を公言しており、それは他の政党政治家が農家を自分に投票してくれる選挙民としか見ないのに比べ、誠意のこもったものであった。「死のまち」発言を報じた時、主要報道メディアは鉢呂大臣がその次に語った一文を無視した。「私達はこの状況を変えなければならない。」
日本はエリートたちによって運営されている。有力な官僚たち、企業の経営者たち、有力な血縁を持つ者たち。しかし、他の多くの国々が似たような体制で運営されているにもかかわらず、日本の支配者層にはイデオロギーが欠如している。金銭をある種の哲学の発現と見なすのなら別だが。
松下政経塾は、パナソニック・グループの創始者、故松下幸之助により1979年に創設された私立の教育機関であるが、将来の日本のリーダーたちの花嫁学校のようなものと捉えることもできよう。野田総理大臣はここの卒業生であり、他にも37人の国会議員がいて、うち民主党が27人で自民党が10人いる。報道メディアは新政権の政治哲学を解明しようと松下政経塾の分析に忙しいが、それほど難解なものではない。松下幸之助は経済的保守派でアメリカとの強い同盟関係を支持していたが、彼がこの塾を設立した主な目的は、コネはないが才能ある若手に政界参入の道を提供することであった。
松下政経塾はコネを持たない政治家志望者が国政と地方自治の両方で当選することを助けたが、その過程で松下政経塾そのものがエリート主義の砦となっていった。松下政経塾には毎年約 200 人の応募者があるが入塾を許されるのはわずか6名である。エリートに関する自明の理の一つに、エリートはエリート同士でしか仲良くしないというのがある。東京新聞のインタビューで語った明星大学の教授によると、国会議員は、血縁により当選したにせよ松下政経塾の力で当選したにせよ、「永田町の論理」が染み込んでおり、それは、全ての政治活動は誰に同意するかに基づいて行われるというものである。彼らの政治人生の現実は、中心的人物である小沢一郎を支持する党員は誰かという問題を巡る民主党内部の強迫観念に現れている。松下政経塾卒業生たちは、指導者の資質を養う方法としてトイレ掃除や書道を学ぶかもしれないが、最終的にはいかに影響力を高めるかに尽きるわけで、それはカネなのだ。
官僚が中央政府を取り仕切っているのは秘密でも何でもないが、さらに先がある。現在の47都道府県知事のうち31人が、以前は様々な中央官庁に勤務していた経歴を持ち、官僚時代に共に働いた地方民間セクター関係者の協力で当選した者も多い。佐賀県と北海道の両知事は元経産省職員で、その家族は電力会社と古くからつながりがある。この二人の知事はどちらも、彼らの府県の原発を再稼働させようと動いている。
政策は上層部で決定されるが、平均的政治家のエリート主義が役に立つのは内部抗争ぐらいのものである。今月抜きんでているのは誰だ? これこそ菅直人が、野党だけでなく自分の党の議員たちからも、あれほど悪意に満ちたやり方で中傷された理由である。彼は過去30年間のどの総理大臣よりも劣っているということはないが、おそらく彼は非政府団体(NGO)を通じて政界入りした最初で最後の総理大臣となるだろう。菅直人は市民運動のリーダーとして出発した。これは全くあり得ないことで、メディアを握る人々も含むエリートたちには許し難かったのだ。それを考えると、鉢呂吉雄大臣にもどれほど生き残れるチャンスがあっただろうか?
フィリップ・ブレイザーのブログは philipbrasor.com で。
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