(ショウジョウソウ=サマーポインセチア)



復帰50年に寄せて②世替わり(唐の世)



琉球・沖縄は、

1972年の日本復帰までの間に、大きな時代の変化"世替わり"を経験してきました。


その歴史を辿ることは、沖縄を思う、あるいは理解する心性に深く関わることだと考えています。


そうした"世替わり"を通して、沖縄がどう生きたのか、資料を参考に、つたないながらも書いてみたいと思います。


お付き合いいただけましたら、嬉しいです。


(月下美人 咲き終わり)



唐の世から大和の世

大和の世からアメリカ世

ひるまさ変わたる、くぬウチナー(この沖縄)


これは、沖縄の民謡歌手・嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)さんが作詞した「時代の流れ」という歌です。


日本復帰前の歌でしょうか。植民地下のアメリカ世の続きがないので、もう一節、勝手に付け加えてみれば、


アメリカ世から、また大和の世となります。


琉球・沖縄の変転の"世替わり"が、端的に、俗的に表現されている歌詞だと思います。


"我が沖縄の生きてきた歩みは、珍しく不思議なことだ。幾度となく世替わりのあったことよ、あいえなあ(ため息=嗚呼)"とでも訳せるでしょうか。


(ハイビスカス 開花途中)



唐の世(とう・ぬ・ゆー)とは、


南海の小国として存在した琉球王国(1429-1879年の450年間)が、


中国と冊封(さくほう・さっぽう)関係にあった時代をいいます。


冊封とは、中国王朝の服属国となり、王(君主)を任命して貰うこと。


「皇帝の言葉を冊(さく)、諸侯に任ずることを封(ほう)というので、国王の任命を冊封と言った。」(原田禹雄=のぶお、参照文献は後述)


「近代以前の東アジアの中心は、中国であった。中国を宗主国、周辺諸国を服属国という立場でだけ、中国は国交を認めた。服属国の君主は、中国の皇帝から任命された。」(原田禹雄)


明の太祖・洪武帝が即位(1368年)したとき、周辺諸国に招諭を出し、


「これによって臣として朝貢する国は、朝鮮・日本・琉球・爪哇(ジャワ)・暹羅(シャム)...など10余国にのぼった。」(沖縄大百科事典)


琉球と中国の交流は、琉球が統一国家となる前(沖縄本島に中山・北山・南山という3つの勢力があった三山時代、のち中山が統一をはかる)に、


中国(明)が、陶器7万・鉄器1000をもって、琉球の馬や硫黄の買い付けに来たり(1374年)、


また、琉球の中・北・南山王が、それぞれ馬や硫黄をもって入貢しています。


正式な冊封関係は

1404年、中山王・武寧の冊封(明朝)に始まり、1866年(清朝)に終焉。 


琉球が薩摩に侵攻され(1609年・慶長14)、その支配下に置かれたのちも、

内外のさまざまな思惑によって、継続されました。


つまり、琉球王国は、日中両属となり、


薩摩(江戸幕府)向け、中国向けという、二つの顔を持って生きてきたことになります。
    

中国は、琉球に対しては、ゆるやかな距離をとり、薩摩の琉球侵攻には、関与しませんでした。




「冊封された国王は、中国の暦と年号を用い、定期的に献上物をもって...朝貢した。
この朝貢に対する皇帝の返礼が、大変高価なものであったことと、携帯した貨物が高価に買い上げられたので、貿易として十分になりたった。」(原田禹雄)


冊封体制下では、進貢の名目で行われる貿易が許され、また留学生派遣などの文化的な利点がありました。


この冊封関係は、琉球王国が、国を維持・繁栄させていくための手段として、自ら選んだ生きる道と言えるでしょう。

  
中国皇帝の使者を冊封使といいます。

(冊封使行列図・部分 『琉球・沖縄史の世界』 豊見山和行編 吉川弘文館 2003より転載)



冊封使一行は、正使・副使のほかに、通事(通訳官)、医師、芸人、船頭など、約500人規模。


滞在期間は、季節風の関係で約6カ月。


滞在施設は、天子(皇帝)の使いということで、"天使館"と名付けられていました。


中国からの冊封回数は、23回ほどです。


冊封使(正使)たちの復命書は、貴重な冊封使録として残されています。


明代の、陳侃(ちんかん)『使琉球録』1534年、
清代の、徐葆光(じょほこう・副使)の『中山伝信録』1721年など多数。


「これらの使録を注意深く読み進めるとともに、冊封使が著した多くの詩集をあわせて読むと、当時の琉球の風物も人物も、どれだけ美しいものであったかが、ありありと浮かび上がってくる。」(原田禹雄)


(ゲッキツ=月橘・シルクジャスミン)



東アジアの国々を中心に外交や貿易を通して発展し、独自の文化が華開いたとされる琉球王国、


この時代の琉球の美術・工芸品は、琉球王国の庇護のもと、中国や徳川幕府、薩摩藩への献上のために作られました。


当時の工芸の魅力や城壁の曲線、城庭の台形などについて、


「"ゆるいものを尊ぶ美意識があったのでしょう。張り詰めていないウチナー(沖縄)らしさがいい」と語る上江洲安亨さん(参照後述)の言葉は、心に残ります。



(『The History and Culture of Okinawa』2000より転載)



ご参考までに。芭蕉布、宮古上布、八重山上布、首里織、読谷山花織、紅型の衣装です。



支配者としての琉球王国への視点も忘れてはならないことですが、別の機会にあらためます。


また、庶民目線も重要だと考えています。


生命をかけた船旅を無事に終え、唐から船が戻ってきた喜びの情景を歌ったカチャーシー曲「唐船どーい」は、今も愛され歌い継がれています。


そうした歌などからも、その時代の息吹を感じとりたいと思います。


琉球の馬たち(1100頭余)は、交易品などとして、船に乗せられ、中国に連れて行かれました。


大変な思いをして海を渡った琉球の馬たちの行く末はどうなったのでしょう。


ネット検索してみると、ちょうど私の疑問を解くような、以下の論文を読むことができました。


長くなりましたので、今回はここまでとします。


主な参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社 1983

「天使が残した記録-冊封使関係資料展」(上・下) 原田禹雄 沖縄タイムス 2018-10-26付ほか *原田禹雄(のぶお)氏は、冊封使録の訳注者・医学博士。

「東アジアの中の琉球(基調講演)」紙屋敦之 『沖縄文化研究25 法政大学国際シンポジウム特集号』法政大学沖縄文化研究所編 1999

「"琉球工芸"インタビュー 「"ゆるさ"を尊ぶ美意識」上江洲安亨 沖縄タイムス 2018-9-13付



私の愛するマリン(男の子)、2歳の日々です。


久しぶりに、おとなの表情。


仮眠しているマリンに、よく頬ずりします。



最近は、私のエプロンの紐遊びがお気に入り😆





皆さま、今回もご訪問いただき、有り難うございます。


書きたいことがたくさんありますが、ブログの更新が追いつきません。



『源氏物語』(与謝野晶子・現代語訳)は、33帖「藤裏葉」を音読中。「般若心経」読経?も続いています。



ゆっくりのお訪ねになりますが、ご了承下さいませ。



どうぞ、日々、お元気でありますよう!


(2022-7-28  午前5時35分 気温27度 玄関先にて)