「朝鮮部落(集落)は訪ねて行ったらすぐ分かった」、家の周囲が「真っ赤だった」から。
戦前、日本統治下の南洋群島ポナペで暮らした幼少期の思い出を語る、上記のような文章に出会った。(沖縄タイムス 2022-7-20「沖縄の生活史-語り、聞く復帰50年」、語り手は87歳・女性)
真っ赤な色は、花かと思ったら、唐辛子だったという。
率直な表現だけに、朝鮮の人たちの住む、《真っ赤な唐辛子の家々》が目に映ずるようだった。
戦前の南洋群島。
1941年時点では、現地の方が5万人余。日本から国策でおよそ9万人が移民として在住。
そのうちの半数以上は、沖縄の人たちだったという。朝鮮の人たちは、どのくらい住んでいただろうか。
上記の方の思い出によれば、朝鮮の人も沖縄の人も一緒に日本軍に提供する野菜を作っていたという。
現地の方々、日本、沖縄、朝鮮、台湾など、多くの国の人々が混在していた、当時の南洋群島。
現地の方々に思い馳せれば、たくさんのことが浮かんでくるが、今回は触れないでおきたい。
話を転じて、
これまで暮らした家のうち、2番目に住んだ家を、私は《菖蒲の家》と名付けて、懐かしむ。
庭は、無いに等しく、花は菖蒲の3株くらいと、母が好きだった、つるバラが少し。菖蒲は、裏戸のあたりに咲いていた。
はじめて体験する《村》の暮らし。10歳〜15歳くらいまで暮らした借家である。
近くの小学校の崖には、ツクシがいっぱいだった。
《小学校の崖に登って、母さんの店に明かりが灯ると、私は急いで生イカを買って、持って行くのだ》、
と後年、その頃の思い出を書いたことがある。
当時、母は昼の仕事が終わると、自宅近くに開いた店に直行し、忙しい日々だった。
斜め向かいの家には、ハルさんという寡婦が住んでいて、こざっぱりとしたその家の印象は、今でも、私の理想である。
《菖蒲の家》時代、兄の、はじめての恋があり、
都会から帰ってきた姉が、私に薄桃色のフリルのついたブラウスをお土産にくれた。
猫がいて、どろんこ道から帰ってきて、可愛い足跡がついた家。
よくネズミを咥えてきた。いつの間にか、帰って来なくなった猫。
昭和半ばの田舎の猫と人間は、ゆるい関係だったように思う。
3番目の新築の家には、母の念願の庭があり、石好きの兄が大きな石をあちこちに配した。
高校生の私は庭に興味がなく、月見草を見に近くの川べりによく行っていたので、名付けるとすれば、《月見草の家》か。この家での思い出は、長くなるので省く。
月見草の色は、"ゆうなの花"の色と似ている。ちょっと哀しくなるようなパーマネント・イエロー。
今度、里帰りしたら、月見草に出会えるかな。
ゆうなの花(2018-3、西原町で撮影、再掲)
すっかりご無沙汰してしまいました。
芸能公演で、山原(やんばる、本島北部)や宜野座村、読谷村、那覇などを飛び回っています(進行形)。
久しぶりの名護の海!
行きは、観光客のように、高速バスで。帰りは迎えの車で帰宅したり。
高速バスのアナウンス(英語で、ちょっと長い)。
読谷村のコスモス畑。
公演アナウンス依頼がとても多く....今年がピークかな、それも佳き!
2月、3月、お留守番が多いマリン。5月に3歳(推定)になります。
どうしても登りたいと、鳴いて訴えるので、ボックスを移動してあげると、洗面台の上を制覇
このかん、"下の歯が抜けたのではないか事件"もありましたが、見間違いでした😆
つい、エイズのことが頭をよぎってしまいます。
精悍なマリン
今回も、ご訪問、有り難うございました。
お訪ねはゆっくりになると思います。ご了承下さいませ。
アメブロさんからの積極的な連絡、増えましたね。アワアワしています😆
昨日、闘病中の義姉に差し入れ。
半煮の田芋(たーんむ)を素揚げし、砂糖醬油に浸けたものと、田芋煮(どぅるわかしー)。裏ごしせずに、塊りが残る感じが美味しいです。
"2023自己紹介のバトン"、同郷の「あーるけー」さんから受け取っていましたのに、ブログのアップに時間がかかり過ぎ、時機を逸してしまいました。せっかくのバトン、いつか別の形で手渡したいと思います。ごめんなさい。
皆さま、どうぞお元気で!










