(11月のハイビスカス)
〈有情・うじょう〉
初めて知ることば。
新聞の俳句の評(神野紗希・執筆)にありました。(「俳句はいま〈11月〉」沖縄タイムス2020-11-8)
それによると〈有情〉は
「生きとし生けるものを指す仏教用語」だそうです。
調べてみると
一般に、心がないとされる自然の風物に対して
心のある生きもの、という意味のことらしいのですが
専門的にはもっと深い教義があるようです。
さまざまな生物たちと共に、自然界の風物に支えられてある、私たちの世界。
そうしたものに心寄せて接することも、〈有情〉と言えるようです。
その意識で、改めて見渡すと、ブログの世界は、〈有情〉に満ち溢れていますね。
ブログで拝見する、たくさんのお話。
その一部ですが、たとえば
幼いお孫さんが、動物たちに「なにしてるの〜」「どうしたの〜」と、さかんに語りかける、みずみずしい感性も、〈有情〉の世界。
(桜京子さんのブログ=「女性道(女は花であれ)」 2020-8-12「孫ちゃんに学ぶ」)
また、「ビロードのうさぎ」という素敵な絵本の世界も、アニミズム的な〈有情〉あふれる世界観だと思います。
この絵本は読んでいませんが、Kさんのブログ(「月曜日の猫」2020-11-5)で紹介されたものを
リブログ先の「リバティラブマリア♡幸せの青い鳥アンジェラは愛の魔法...」さんのブログ2020-11-5)に飛んで、紹介文を読ませていただきました。
結末は、胸がいっぱいになるようでした。
慶大名誉教授の渡辺茂氏は
「動物と人間の間に違いがあることへの認識も重要です。人には心があるのだから、動物にも心があるはずだというような安易な擬人化は危険」(2020-9-25沖縄タイムス「時の人」)と警鐘を鳴らしておられますが、
私は、自然な心のありようとして、通い合う心の可能性を信じたく思います。
他者・他物に寄せる思いがあってこそ、情けあってこそ、私たちは豊かになれるのだと。
前回のブログの、太宰治の『富嶽百景』も、崇高に存在する富士の山に、〈有情〉を結んだと言えると思います。
先ごろ話題になった"ど根性だいこん"もそうですね、生まれたところで生きてある姿に、励まされました。
そして、また、悲しみの世界も目にとまります。
残酷に苛まれる動物たちの世界。人間が、引きちぎるその手に、蹴り上げるその足に、恐怖を与えるその仕業に、胸が張り裂けるようです。悪魔のような仕組みに埋没する人間の脆さ、情けのなさ。
つくづく思います。
この浮世を、情けだけで渡っていけたら、と。
ものごとの、裏側を見てこそ、なおさら、その思いは強まります。
懐(ふところ)に
そっと訪れる〈有情の原郷〉に
胸のしじまを重ねてみます。
山あいに、カッコーの声が響いていた子ども時代。
野山に分け入ると、生物の、人知れず生きて、朽(く)ちていく姿を、知ることができました。
青々と生きて枯れ、土に還っていく。
死骸は、「孤死(こし)」であるけれど、その場所は、懐かしき呼吸の場所。ふりそそぐ雨、木漏れ日、風。
幼な心に体験した、そうした自然への〈有情〉は、私を支えてきたように思います。
そうした記憶につながる残像を
アメリカの現代画家、アンドリュー・ワイエス(1917-2009)の画に発見し、忘れがたい作品となっています。
「ウィンター・フィールズ」と題する作品。見えにくいと思いますが、手前に黒い鳥が横たわっています。静謐(せいひつ)に。カラスでしょうか。
また、悲しみの世界ということで見れば
「ジャックライト」と題する作品。
ワイエス家の敷地に訪れ、風で落ちたリンゴを食べていたこの鹿は、人間によって、その生命が閉ざされ悲しい姿になりました。(ワイエス自身による解説参照・左ページ)
(左=アンドリュー・ワイエス展画集、右=『現代美術 第3巻 ワイエス』1993-12 講談社より)
今回は、ここで本文?を締めます。
皆さま、こんにちは。
今日の庭の花は、お茶にしたり食べたりしたものをアップしてみました。
今回は、出会ったばかりの〈有情〉ということばに興奮して(笑)まとめてみました。感情過多の舌足らずです。
最近、たくさんのブログで、〈死〉と向き合われた方々を拝見します。どうぞ、寄り添い、乗り越えて行かれますように。
時節柄、体調に留意してお過ごし下さいませ。
今日も、ご訪問、有り難うございました