久々に史跡巡りのお話でも。

 

会津に彼岸獅子に見に行った時に、白河の史跡巡りを合わせてみました。

去年史跡巡り出来そうな良い本買ったので、行きたいなぁって思ったんです。

よみうりカルチャーのツアーでも稲荷山は行ったんですけど、余計にがっつり周りたくなって。

 

2日半くらい時間取ったので、1日目は自転車で周れるだけ周ってから考えようかな。

駅前の観光案内で無料レンタサイクル借りれるので有難いです。

だいぶ風が強いのは誤算でしたが。

 

 

まずは聯芳寺にて、福島藩十四人碑。

 

 

六反山で亡くなった福島藩士14人の慰霊碑です。

篆額は福島藩主板倉勝達。

 

 

女石で、仙台藩士戊辰戦歿之碑。

戊辰戦争で亡くなった仙台藩士の慰霊碑です。

 

 

傍らの戦死供養塔は、白河口の戦いで亡くなった仙台藩士150余名を葬ったお墓です。

 

さあ、この勢いでどんどん周るぜ!と風にも負けず自転車を漕いでいたその時です。

 

 

ズッシャーーーーーーーーーー。

 

 

見知らぬ石碑の案内板に目がいき、道路に砂利が流れ出ているのに気付きませんでした。

ハンドル取られて派手に転倒。

もう帰りたい、ショックでしばらく呆然としていました。

まあ逆側交通量の多い車道だったから、そっちに転ばなくて良かったですけどね。

多少の痣と擦り傷で済みました。

痛いもんは痛いですけど。

 

気を取り直して史跡巡り再開。

なんかこう、困難があると逆に燃えます。

負けるかっ!、みたいな。

 

 

女石で遊女志げ女の碑。

しげは旅籠坂田屋のお抱えで、世良修蔵と懇意になりました。

世良の白河脱出を助けたと疑われ、会津藩士に殺害されました。

後年、坂田屋の下男がこの地でしげの復讐を果たしたそうです。

 

世良絡みなので、白河で一番来たかった場所です。

ちょいと写真のアングルが上からなんですけど、痛くて屈めなかったので。

 

 

無名戦死之碑。

道路改修の際に発見された、戊辰戦争戦死者と思われる一体の人骨の慰霊碑です。

 

 

関門の趾。

官軍が西軍を追討するのに、ここから南に百余間の辺りに関門を作りました。

度重なる道路の改修でその趾は無くなりましたが、昭和になってからこの碑が建てられました。

 

 

小峰城。

薩摩藩の官修墓が城の近くにあるので探してたんですが。

ありゃ、見つからない。

城内じゃなくて近くなのかな、ってお城を出かけたのですが。

 

 

忘れるところだった、三重櫓の弾痕。

再建の際に、稲荷山の流れ弾があたった杉の木が1階と2階に使われています。

2階の弾痕は探せなかったんですが。

お城のおばちゃんに聞いても全然そっけなかった。

 

 

やっぱり城の中ではありませんでした。

鎮護神山の、戊辰薩藩戦死者墓。

元は各地にあった、白河、三春、いわきの薩摩藩戦死者を合葬しています。

 

 

白河で亡くなった薩摩藩関係者、といえば。

清原清改め、武川直枝でしょうな。

新選組隊士、伊東甲子太郎の御陵衛士に参加。

加納鷲雄と共に、投降した大久保大和を近藤勇と見破り。

白河口の戦い開始間もなく、稲荷山付近で討ち取られました。

その際討ち取られた13人の首は、稲荷山近くの九番町、その後小峰城の大手門に晒されました。

薩摩藩で晒されたのが7人ですから、同じ25日に亡くなってる7人がその7人なんでしょうな。

現在稲荷山麓にある長州大垣藩戦死六名墓が戦死場所で、元々はこの薩摩藩の官修墓が出来るまで十三人の合葬墓でした。

 

 

その大手門はどこにあったんだろ、ってことで探してみました。

現在の小峰城内にはなく、礎石が白河集古苑前に移されています。

 

 

順番違うけど、この流れで大手門跡も。

その名も大手通りとして、駅近くに名前が残っています。

遺構が個人の庭に残っているそうですが、見るのは難しそうですよねぇ。

そこのお宅の場所から考えて、恐らく写真の手前部分が大手門辺りだろうなと思います。