ツアー2日目。
朝もゆったりな出発でのんびりです。
この日も只見叶津の戦い跡をバスで横目で見つつ。
まず降りたのは旧長谷部家住宅です。
叶津番所として利用され、西軍の本営にもなりました。
河井継之助も1泊したと伝わってはいるそうですが、記録等はないため確かかはわからないそうです。
代々戊辰戦争のことは語ってはいけないと言われていたそうです。
でね、この場所結構時間とったんですよ。
一通り部屋をみても、まだ時間があって。
うん、勝手なことをしてごめんなさい。
時間までに戻るので良いですかと聞いたら、快く了解していただけました。
なので、叶津の戦い跡の地まで一人で歩いて行きました。
近いかと思ったんですけど、それは車だからで。
歩いたら結構ありました、叶津の戦い跡。
途中で時間までに戻れるかわからなくなったので、戻るか物凄く悩んだんですが。
でもどうしてもみたい。
最悪帰り走ろうと決めて、急いで写真撮って戻ります。
事実、帰り走りましたからね。
この標柱一つの為に。
汗だくで戻ったら、皆さんもう1軒の方の旧五十嵐家住宅見てて全然時間あったんですが。
まあ、時間までって約束したしね。
勝手なことしてるからそこは守らなければ。
そしてそして。
私のこの2日間の目的地です。
只見町河井継之助記念館。
このね、この。
終焉の地、矢沢宗篤宅が移築されています。
ヤバい、泣ける。
本当ならダムの底に沈んでるんですけどね。
偉いお侍様の亡くなった家だから、と私財で保存したそうです。
戊辰150年記念で展示物が増えていたものの。
正直、記念館自体は展示物がほとんどないです。
パネル展示とレプリカがほぼ。
司馬遼太郎の峠好きな人はともかく、戊辰好きは物足りないんじゃないかなー・・・。
まあ、それを補って余りある終焉の間なのですが。
なので、すみません。
展示は見ずにちょいと館内散策。
お庭には河井継之助終焉之地碑や。
司馬さんが眺めた場所。
まあ、最後は解説聞きますよ。
終焉の間ですもん。
と思って合流したら、あっれー???
時間ないからとサッと素通り。
最初に入った時にちょっと説明したので終わり?
私ここだけで数時間でも見たいのに。
最後に見れると思ったので、写真そんなに撮ってないんだ。
物凄い心残りです。
本があんまり売ってなかったのも想定外でした。
物凄い買う予定だったのに。
ちゃんとお墓にお参りできたのは良かったです。
荼毘に付された河井継之助、遺髪は妻に、遺骨は会津に向かった牧野の殿に。
只見の方々は、細かい遺骨を集めてこのお墓を建てました。
遺骨は後に長岡に帰っています。
会津の埋葬跡のお墓もお参りしたいなぁ。
そしていつかここも時間を取ってリベンジしたいです。
楽しいツアーもさあ終了、ではなく。
本来の本番はここからです。
八十里越えの工事現場の見学です。
元々八十里越えとは、新潟県の三条市と福島県只見町を結ぶルートで、河井継之助や牧野公もこの峠を越えています。
本来ならば八里の距離ですが、一里が十里にも感じるとのことで八十里と呼ばれています。
現代においても険峻な土地なのでしょう。
工事は何十年と続いており、その開通は地元の方々の悲願となっているようです。
このツアー、皆さんお目当てはこの工事現場みたいですね。
熱心に質問されていて、その熱意が伝わってきます。
流石新潟県。
工事のガードレールが鴇ですよ。
可愛い。
たっかい。
開通したら、こんな高いところを通るんですよ。
パネルの写真を撮らせていただきました。
赤い線が見えるでしょうか、それが明治期の八十里越え。
奥の山が実際にその山なので、あんなところ通るんですよ。
嘘でしょ、人通ることじゃないよ。
実際に踏破するツアーもあるんですけど、流石にそっちは自信ないよ。
牧野公の八十里越えは記録があるのでルートがわかるそうですが。
河井継之助のルートはわかっていないそうです。
2日間お世話になった八十里越え体感バスです。
流石戊辰150年、マニアックなツアーだと思うでしょ。
内容は変わるけど、毎年やってるそうですぜこれ。
市が協賛してるから、物凄いお安いし。
来年辺り皆様いかがでしょうか。
まだ他のツアーで募集しているものもあるようです。
工事がメインなので、少々歴史が物足りない部分もありましたけど。
ご飯も美味しいし、資料もいっぱいもらえて大満足の2日間でした。
解散した後、翌日仕事なのですぐに駅に向かったんですけど。
すれ違った参加のご夫婦、車から窓を開けてわざわざお二人で手を振ってくれたのがとても嬉しかったです。
今回の新潟は、皆さん優しくて良い思い出になりました。