年末年始のお出掛け、ラストでございます。

途中から倉敷じゃなくなりますけどね。

 

 

倉敷浅尾騒動で犠牲になった、目的の最後のお一人は。

西阿知駅から少々歩く、実際寺にあるそうです。

 

 

三島常太郎時政。

ここはね、あるのわかってたんです。

お寺のホームページにあるって書いてあったから。

ただ写真はなかったので、実際にお参り出来て感慨も一入です。

この事件で犠牲になった方のお墓には、件の代官桜井久之助の筆で節死〇〇之墓と刻まれているとのことでしたが。

違うじゃん、節士なのね。

 

 

正確な関係性がわかりかねるのですが、時政は山田方谷に師事し二本松学舎大学の前身二本松学舎を設立した三島中洲と親族のようです。

同じ墓域に、三島中洲の生歯碑銘。

 

お一人でもお参り出来て良かった。

 

さて、この後どうしましょうか。

倉敷周辺で予定していたところは見てしまったんですけど。

日が暮れるには、もう少し時間がありそうです。

翌日総社を周る予定でしたが、全部は無理でもちょっと先取りしますかね。

歩き足りない気もしますし。

 

移動して、総社市です。

東総社の駅から水島東九郎の墓所を探して歩きました。

 

水島東九郎、本名は清水宗義です。

備中高松城主清水宗治の一族ですが、同郷の立石に賛同し第二奇兵隊を脱走。

一族に迷惑をかけることを慮って、水島東九郎と改名しました。

 

浅尾陣屋襲撃の際に討ち死にするんですが、兄治平が遺体を探しにいったところ。

首は既に同志によって斬られ既になく、周囲の目もあり遺体を担ぎだすわけにもいかず。

陰毛のみ切り取って持ち帰り、始祖宗治と同じく総社の清水一族の墓地にお墓を建てたそうです。

 

さて、総社のどこだ。

 

戦国時代全くなので、私はわかりませんけど。

清水宗治、Wikiとか読んだ感じ結構著名な方っぽいぞ。

じゃあ、宗治さんの墓地を探せば結構簡単そうじゃない?

しかしながら、探しても探しても総社の墓は見つからない。

備中高松城近くのお墓はいっぱい出てくるのに。

お願い戦国好きの方、総社の墓も頑張って探して…!!!

 

色んなサイトを周ってやっと、総社市井手の萬福寺近くにあるとの一文を発見。

行くか、取りあえず萬福寺へ。

思ったより駅から歩きました、感覚で2キロちょいくらいですか。

まあ、萬福寺着きましたけど。

そう簡単には見つかりませんよね。

 

ぐるっと周りを見回してみたら、墓地が見えるじゃないですか。

取りあえず行ってみましたが、別のお寺の墓地でした。

そしたら、奥にも墓地が見えて。

よく見たら清水さん清水さん清水さん。

あった、ここだ!

 

 

清水宗治。

名前も彫られてるしわかりやすいですよね。

 

 

お目当て、清水宗義。

一面清水さんなので、迷うかと思ったんですが。

持って行った本の記述が詳細だったので、すぐに見つけることができました。

宗治の左斜め前ですよ。

 

供養塔みたいな話だったような気がしたんですけど。

ちゃんとお墓もあったんですねぇ。

お参り出来た満足感でホクホク帰っていると。

ん?供養塔?

 

 

慌てて戻りました。

お墓の後ろに、25回忌の供養塔。

山口の本家、清水清太郎から贈られているそうです。

 

ちなみにこの墓地は、南之坊というお寺の近くにありました。

更に蛇足で。

いくらネットで探しても見つからなかったこの墓地の写真は。

帰ってからうちの本棚で見つけました。

行く前にこの本見つけられなかったんですよねー。

 

さあ、早めにホテルに帰って備えますか。

明日は浅尾陣屋だ、と思ったんですけど。

備え過ぎました、一日倉敷周ってから再度調べてみたら。

なんとなく今日外したところの見当がついてしまったんですよね。

 

 

と言う訳で翌日、地蔵院の小松原芳太郎。

向山墓地というところが、共同墓地のようになっているようです。

だから地蔵院に墓地がなかったのか。

ご多分に漏れず、山一つが墓地なんですがね。

こちらのお墓は船倉町の交差点の近く、高台の方でした。

今度はきちんと節死なのね。

で、あからさまに筆跡が違うんですけど。

彫るとこんな感じなのかしら?

興味深いところです。

 

後、この墓地に。

同じく犠牲になった米屋おきよのお墓もあるそうです。

倉敷ユースホステルの南側とな。

高低差を考えないのは、私の悪い癖です。

超坂でした。

しかも辿り着いてみれば、斜面に一面のお墓。

うん、これは無理。

写真がないどころか、墓碑が米屋おきよかもわからないし。

米屋は屋号だよね?このままじゃなさそうだし。

一通り歩いてみましたが、深追いはせずに諦めてました。

いやしかし、4人以外にもお墓が残ってるのか。

 

長連寺の山川真喜太もあってるわ。

三島もそうですけど。

関係性に驚きますよね。

この山川さんは、山川菊栄の山川さんみたいです。

やっぱり本家とか分家とかの関係になるのかな?

調べようと再度長連寺行ったんですけど。

集まりか何かあるのでしょうか、檀家さんが次から次へと。

目星をつけている場所は木戸に閂がかかってて、格子から覗いてみたいところですが。

流石にこの状態では。

こちらも再訪の際の宿題にしたいと思います。

 

この後総社にまた行く予定だったんですけどね。

いや、この日は寒い寒い。

寒過ぎて具合悪くなってきたし。

これで交通手段が少ないところに行くのは良くないかな、予定変更で早めに帰途に着きました。

日程の割には史跡少ないですけど。

結構充実したんではないでしょうか。

 

さて、立石孫一郎。

家風があったとはいえ、ここまでの思想とか行動力はなんなのでしょうか。

第二奇兵隊脱走して、逃走中に倉敷の代官所襲撃したのかと思ってましたけど。

ここまで計画性があったとは。

ただ、その割には。

襲撃したら目的の桜井がいない日で、犠牲になったのはほぼ留守居の商人。

女性が2人も含まれてて。

何より楢崎剛十郎を殺害している時点で、正当性を訴えられるはずもなく。

長州には戻れない。

なんだか片手落ち。

もう少し全体が見れれば、指導的な立場に立てたのではないのかと思いました。

 

石城山や光市も行ってみたいな。

もう少し調べて、また倉敷にも行ってみたいと思います。