それでは倉敷編。
倉敷、意外に京都からすぐでしたよ。
乗り換えも少ないし。
18きっぷ向きかも、相変わらずおススメはしないけど(笑)。
今回の旅のお供は、角田直一『倉敷浅尾騒動記』。
ちょいと小説のような部分もあるのですが、許容範囲。
史料の書き起こしもあるし、情報多くて良い本でした。
しかし、行きにこれ読みながらでしか調べていないので下調べは全くです。
この本によれば、倉敷浅尾騒動で代官所側の死傷者は11人。
内9人が亡くなっていて、4人のお墓が現存しているそうです。
よし、では今も残っているか確認しに行こうではないですか。
倉敷、史跡は美観地区周辺に密集しているので周りやすいです。
まずはホテルからも近い地蔵院にて、小松原芳太郎。
うん、墓地がないよね。
早々に空振り。
開いてないけど、大橋家住宅。
大橋敬之助は、作州二宮の立石家から平右衛門長女慶の婿養子として大橋家に入りました。
敬之助夫婦で西大橋家に分家しているので、ここが本家になるのですよ。
勿論本家でも多くの時間を過ごしたことでしょう。
なので、中は是非見たいからまた行きたいのですよ倉敷。
そこでやっているお店が今も昔の屋号そのままに中島屋。
ご子孫なのでしょうか。
美観地区も屋号そのまま使っているお店がチラホラあって、繋がりが気になります。
史跡巡りのことしか調べてなかったですが。
美観地区、綺麗な街並みで良いところでしたね。
お店もイチイチツボで、史跡巡り中だってのにドンドン鞄がパンパンに。
お正月だってのに、人もいっぱい。
そんな中で進める、史跡巡りですよ。
不審者感は5割増しです。
この人は何故ここの部分ばかり写真を撮っているのでしょう。
それはね、下津井屋事件で下津井屋親子の首が晒されたのがこの場所だからです。
下津井屋は新禄派の商人で、禁制である津留を行って私腹を肥やしました。
敬之助の実家は志士の出入りも多かった尊王の家で、師の井汲唯一も勤王家。
敬之助も大和義挙の跡地を見に行くほど勤王の志篤かったそうです。
なので下津井屋の悪事を暴き、下津井屋は裁きを受けるのですが。
倉敷代官所の代官が変わったとたん、下津井屋が根回してて代官を懐柔。
逆に敬之助を悪党だと激しく責めたそうです。
倉敷に居られなくなった敬之助。
下津井屋事件はそんな敬之助の居なくなった倉敷で発生します。
下津井屋吉左衛門と寿太郎の首が晒され、下津井屋は焼き討ちされました。
敬之助と行動を共にした和栗吉次郎が、後に敬之助の犯行だと話したそうです。
この辺りが、後の倉敷浅尾騒動に繋がるわけですね。
その下津井屋はどこにあったのか。
はっきりとは調べがつきませんでした。
ただ前神橋西詰河畔、御崎地区とのことです。
御崎地区がわからないんですけど、御崎神社なる神社があるところはきっと御崎地区よね。
前神橋から、そちらの方面をパシャリ。
お次は長蓮寺で、山川真喜太。
ただ、ないのよね長蓮寺。
長連寺さんならあるので、誤植かもしれない。
とりあえずそちらへ。
とても立派なお寺さんでした。
墓地も広い。
一通りはみたものの、合っているか間違っているかもわからない寺で深入りは危険かな。
諦めてお次の場所へ。