岩国、史跡巡りはほとんどしてないから先に書いちゃおう。

 

実はなんだかんだで岩国は3回目です。

経幹眠る洞泉寺から福原越後が斬首された清泰院まで流した1回目、赤禰武人の生家や墓地を巡った柱島の2回目。

幕末の岩国コンプだぜ、くらい思ってましたけど。

調べてみたらまだまだ全然でした。

 

最近の史跡巡りは、市やら観光協会やらの史跡巡り用マップに。

追加したり突っ込んだりして巡っています。

 

今回のベースは、岩国の観光サイト「岩国旅の架け橋」より岩国幕末紀行のパンフレット。

うん、今回メインにするのは岩国三士と紹介されている東沢瀉、栗栖天山、南部五竹関連かな。

 

しかしながら、ネットで画像が出てこない。

皆さん、ネットに載せないのか。

北の方だと、結構細かく載せてるサイトに行きつくのに。

西ってあんまりそういうサイト見かけない気がします。

龍馬とか高杉とか、1人に心酔、みたいな感じが多い気が。

私の探し方が悪いんだろうか。

 

それとも、そもそもそこまで行かないものなのか。

元々幕末虱潰し、くらいの気持ちで出掛けてますけど。

諸先輩方の薫陶のお陰で、最近ディープになっていっている気はします。

 

結構リストアップしましたが、展示長く見過ぎたのと2日目が雨だったのでほとんど周れていません。

良いの、岩国がこんなに赤禰推すなら、この先の人生でもまだまだ訪ねそうな気がするから。

 

まずは大体目安が付いている吉川公園周辺から。

三士誠忠碑です。

 

 

目安が付いていても、結構探しました。

神社の境内の端にあるんですけど。

吉香神社になるのかしら、あの辺神社多くてどこだかはっきりわからなかったんですけど。

岩国徴古館の向かいの神社です。

の、鳥居潜って右奥にありますよ。

 

三士とは、前述の通り東沢瀉、栗栖天山、南部五竹の3人です。

東沢瀉は陽明学の学者で、藩校養老館でも1年間助教を務めました。

四境戦争時には後の精義隊となる必死組を結成するも、隊の粗暴の責任を取らされ、柱島に流罪になります。

 

栗栖天山は東沢瀉と共に必死組を結成。

東と共に柱島に流罪になるも、脱出を図りますが失敗し自刃しました。

 

南部五竹は東、栗栖と交流があり、栗栖死後東の救出を図りますが失敗して妙覚院で処刑されました。

 

岩国市内なのか、山口県内なのか。

明治維新150年に向けて、関連史跡の案内板新調しているみたいです。

徴古館の展示でみたところ、柱島の案内板も新しくなってるみたい。

あらやだ、もっかい柱島行きたい。

 

 

藩校養老館跡。

弘化4年、経幹の時代に開校しました。

 

 

仙鳥館。

5代領主吉川広逵の住居として建てられ、以後藩主子女を養育する場として使用されました。

経幹、経建もここで生まれて、ここで育ってます。

 

ちなみに、日曜に行きましたが門が閉まってました。

開く日決まってたりするのかしら。

上の写真は隙間から覗いたの。

 

ここらで錦帯橋の向こう側とはお別れ。

町の方に戻ります。

 

本当は近くの鎮魂社に行こうと思ったんですけど。

思った以上に展示を見ていて、微妙な時間。

三士メインにしたから、そっち優先で周ります。

ここからはマップに追加した部分。

 

 

南部五竹が処刑された、妙覚院です。

ですが、眠っているのは栗栖天山です。

 

そこまでお墓が多い訳ではないんですがね。

墓地が広い。

背後に広がる山の斜面に、ポツポツお墓が見えます。

 

…これを探すの?

まだまだ一人でローラする根性がありません。

お寺の案内板に載っている3人のうち、お一人は看板が建ってて。

じゃあ、取りあえず同じような看板探そうと墓地を徘徊。

元気に草生い茂る山の坂道も登りました。

 

が、見つからない。

うん、看板ないなこれは。

 

どーするべかな、諦めるのも踏ん切りつかず。

佇んでいたら、中から人が出てきたので聞いてみました。

最終的にはお寺の方に聞けて、墓所まで案内していただけました。

 

 

栗栖天山のお墓です。

場所?

 

 

はい、この山門前のお寺の名前が書かれている石碑の壁の向こう側です。

 

 

壁からこの贈位の石碑がちょっと見えているので、それさえわかれば簡単に見つかるかと思います。

 

栗栖天山のお墓を見たということは。

そう、今回の追加は三士の墓所。

 

南部五竹は琥珀墓地、ってところまではネットでわかったんですが。

墓地の場所がイマイチわからなくて。

取りあえず、近くの普済寺目指します。

 

妙覚院を出て、しばらくすると墓地が見えてきて。

ああ、普済寺までに他にお寺あるんだなぁと思ったら。

墓地は延々と続いて、そのまま普済寺到着。

 

 

あれ、これ全部普済寺の墓地か…!?

後で調べたら、約6000基程あるそうです。

ここも多くの岩国藩士の菩提寺となっているそうなので、そちらをお参りしつつ。

とはいえ、もう見ただけで広いのわかるので深追いはしない。

 

 

本堂脇で見つけました。

福原範輔。

経建の守役で、南部五竹と共に建尚隊を結成。

戊辰戦争を戦いました。

新湊に碑があるそうです。

 

 

長谷川藤次郎。

元帥陸軍大将長谷川好道の父で、剣術家。

資料には一隊を組織して戊辰戦争を戦ったってありますけど。

何隊だろ?

好道が精義隊で戦ってるって書いてあったんですけど。

精義隊だと東と栗栖だから、他の隊になるのかしら。

ちなみに無縁塔と一緒になっています。

 

で、琥珀墓地。

境内の案内板で、普済寺周辺の墓域に名前が付けられていて。

その一つが琥珀墓地なのはわかった。

どうするかなー、見つかるかなー、無理だろうなー。

と、本堂の裏に続く道をそのまま進んでいたら、琥珀墓地の看板が。

おお、着いた。

 

でもなー、ここから探すのも大変だよなー。

どう見ようかなぁなんて考えながら、端までなんとなく歩いて。

そのまま振り返ったら発見。

 

 

南部五竹。

何故簡単に見つかったかと言えば。

 

 

これです、お隣の贈位の石碑。

栗栖天山と同じ造りで。

先に見てたから、見つかりました。

取りあえず本堂裏からそのまま墓地を延々と歩いて、突き当り手前でこの石碑見つけてねくらいしか説明のしようがないです。

 

意外に手こずると思ってた栗栖と南部が早々に見つかり。

三士のお墓全部お参りできるなと、この時は安易に考えていたのです。

 

 

で、戻りながら発見。

井上光。

精義隊で戊辰戦争に参加し、陸軍大将まで上り詰めました。

 

意外なことに。

このような華族のお墓がたくさんあって。

まあほぼ長州藩で勝者側だから、要職についた方も多いんでしょうな。

 

普済寺を出た頃には。

宿戻るには早いし。

錦帯橋の近くの鎮魂社戻るには微妙な時間。

道すがらにあった岩国図書館に寄ることにしました。

 

んん~、蔵書数は微妙だねぇ。

かろうじて市史は見れたけど。

赤禰関連の資料あるかと思ったんだけどね。

ただ、普済寺の本あったの有難いですねぇ。

個々の記述は少ないけど、埋葬されている岩国藩士がかなり載っています。

気になったお墓も藩士のだったんだなぁ、次これ見て周れるな。

しかし、コピー自分でとれないのには参ったな。

お願いするには気が引ける量だったもん。

 

やっぱり郷土資料なら中央図書館かしら。

他の土地ならともかく、赤禰の出身地岩国だから。

ここはいずれ行きたいですね。