12日の夜に帰ってきて。
我が家に2泊。
毎年13日は外出しちゃいけないんですよ、お棚吊らないといけないから。
で、恒例行事も終えたので。
14日の始発で出発。
以前から白石の世良修蔵のお墓に行きたかったんで、そっち方面で世良修蔵縛りにしようかと。
福島の観光協会で作った街歩きのマップと、世良修蔵の本2冊持って18切符でお出かけです。
延々と電車に乗るので、車中で本読んで気になるところ片っ端から検索かけてコース決定。
行き当たりばったりにも程がありますが。
まあ、一番の目的は怪獣帰省中の家にいないことですから。
福島駅にはお昼前に着きました。
バスの関係で、市内にさける時間は2時間くらいしかありません。
福島駅には、無償で借りれるレンタサイクルがあるようなので、こちらを借りて時間短縮です。
まずは一番遠い寶林寺から。
左から、長州藩士の中村小次郎。
同じく野村十郎。
肥州山口忠右衛門。
世良修蔵が殺害されたことにより、奥羽鎮撫総督府として派遣された長州、薩摩の藩士は次々に殺害されていきます。
中村小次郎は、白河城が占拠された際に捕縛。
護送の途中で殺害されました。
野村十郎は世良に会いに福島に訪れた醍醐忠敬に同行していて殺害されました。
山口忠右衛門は世良関連で殺害されたわけではなく。
奥羽の戦で戦死しています。
阿武隈川河岸、長楽寺の裏あたりで世良修蔵は斬首されました。
辞世の句すら詠ませてもらえなかったそうです。
首は白石に送られましたが、胴体は斬首された河原の土手に埋められ、その後川の洪水によって流されました。
奥州軍事局が置かれた長楽寺。
山門脇に浅草宇一郎夫婦之碑と、仙台藩烏天狗組之碑。
浅草宇一郎は目明しで、世良捕縛の際にも参加しています。
世良修蔵の馬丁の繁蔵がこのお寺で斬られています。
お寺の裏に首のないお地蔵様があって、世良と勝見の胴体が埋められているという話があったそうですが。
世良と勝見の埋葬場所ははっきりしているので、この繁蔵と松野儀助だろうと書いてありました。
でも、首のないお地蔵様なんて見当たりませんでした。
山門脇にお地蔵様がいっぱいあるので、集めてあるのかしら?
左端の、ちょっと首がないように見えません?
これかしら。
わりかし、ここを目指してました。
金沢屋跡。
世良修蔵が捕縛された場所です。
建物は全く残っておらず、道路にかかる場所になるそうです。
開院当時は、浅草屋の建物をそのまま使っていたようですが。
浅草宇一郎の旅館です。
世良が捕縛後連れていかれた、客自軒跡。
客自軒は後に河野広中によって「紅葉館」と改称されています。
だから、もみじガレージなんでしょうな。
客自軒については、後程。
そして福島稲荷神社。
時間気にして、結構焦って探してたんですけどね。
よそ見してたら、電柱に思いっきりこすりました。
人でなくて良かった…、そして自転車も無傷で良かった…。
その分、ハンドル持ってた左手の指またちょい抉っちゃいましたが。
そういや阿月の赤禰のお墓でも左手の指ちょい抉りましたね。
あれかしら、浦門下の史跡巡りの時は怪我するのかしら。
お目当ては、境内裏の世良修蔵の官修墓。
共に亡くなった勝見善太郎、後に殺された松野儀助、繁蔵も祀っています。
官修墓の前にある石灯籠は、前方の向かって右側が黒田清隆、左側が品川弥二郎の寄進です。
品川の名前はわかりましたけど、黒田は読めなかったなぁ。
黒田、品川が辞退したので、大山、世良が奥羽鎮撫総督府下参謀として参加したので。
自分の代わりに亡くなったという気が強かったのでしょう。
もう一対石灯籠があって、そちらは右が橘正風、左が橘正郎と伝わっているそうです。
宝林寺にお墓のある、中村十郎の兄弟です。
お墓の後ろの歌碑も、橘正風が弟を偲んで詠んだものです。
市内の史跡巡りはざっくりこれくらいで。
もう少し関連の場所とか拾いたかったですけど。
さっと読んだ本とネットではこれくらいで。
ちゃんと周るならもきちんと調べないとな。
で、左手血塗れにしてまで慌ててたのは。
福島民家園に行くためです。
バスの本数が少なくてさ、これに合わせたかったんですよ。
福島民家園には、客自軒が移設されて現在も残っています。
4棟あったうちの2棟のみなので、世良が引きたてられた部屋なのかはわからないですけど。
看板にも世良の話書いてあるし、この建物だと思い込みたい。
客自軒に連れてこられたとき、勝見善太郎は柱に括り付けられて。
世良は金沢屋の庭の切石で頭に重傷を負い、白石の本陣に送れるような状態ではなかったそうでして。
このまま客自軒で殺害しようとしたところ、主と懇意の浅草宇一郎が嫌がり、阿武隈川河原での斬首になりました。
福島民家園、他の建物も見応えありますし。
人もいないから、心行くまでみれて良かったですよ。
クワガタ歩いてた、のどか。