史跡巡りに夏は向かないですがね。
引きこもりがちな夏に動くとしたら、史跡巡りは良い選択肢なのですよ。
3連休、流石に3日引きこもるのは気が引けて、昨日は近場で史跡巡り。
直前に思い付いた割には、本棚に何冊か本があるのでそこそこなんとかなりました。
市川船橋戦争史跡巡り。
最後に足調べたら、同じ千葉なのに時間がかかるわお金がかかるわ。
全然近場でなかったのはご愛敬。
しかしながら、お天気には恵まれました。
暑くない、日も照らない。
物凄く快適に史跡巡り出来ました。
ちなみに今回、既出の大山柏『戊辰役戦史』と。
内田宣人『遺聞 市川・船橋戦争』、山形紘『市川・船橋戦争』をもとに周りました。
真面目にやるなら、ちゃんと専門書調べるかな。
取りあえず船橋市史と市川市史欲しいかも。
スタートは、鎌ヶ谷大仏駅から。
すぐ近くの鎌ヶ谷大仏墓地です。
官軍兵士の墓。
この近くの鎌ヶ谷村大新田付近の戦闘で亡くなった、佐土原藩兵の蓑毛次右衛門と巳之助の墓です。
三河屋喜平次と同じく、柴原和が殉国者墳墓と定めた17人の内の2人のお墓になります。
パッと目に入る官修墓で見落としてしまいそうになりましたが。
その前に最初に建てられたお墓も残ってました。
柵に沿うようにありますが、隙間からそこそこまともに撮れます。
ここには案内板もあって、以前は撒兵隊を彰義隊残党と説明してある酷いものでしたが。
新しくなった看板はちゃんと撒兵隊になってました。
そういや、目的でないから良いんですけど。
鎌ヶ谷大仏、写真はおろか案内板すら読んでこなかったね。
鎌ヶ谷大仏から、木下街道を南下。
この木下街道は、当時約2メートル程の狭い道でしたが。
市川船橋戦争での主要な移動ルートです。
延命寺寄りに旅籠が並び、佐土原藩兵はこの辺りの宿にわかれて泊まったと推測されるそうです。
更に南下、少し離れるのでバスを使うと便利でした。
丸山道のバス停で降りると近いですよ。
安立庵跡の、佐土原藩常吉の官修墓です。
こちらも17人のお墓の内の1人。
安立庵は廃寺になってまして、馬込沢駅よりの木下街道沿いとは聞いていましたが。
見つけられるかちょっと不安だったのね。
しかしながら、凄いですよ。
事前にグーグルマップで木下街道なぞったら発見。
オッケー、グーグル!
グーグル先生、本当に凄いですよね。
地図も然ることながら、方向音痴なのでどっち進んだら良いのかわかるのが最高に有難いです。
こちらもグーグル先生に見つけてもらいました。
旭町共同墓地で撒兵隊士の墓。
妙法青蓮院法進日明信士、本名は伝わっていません。
匿われた高橋家で、村人を敵兵と間違えて自刃しました。
慶応四卯年閏四月六日とあるので、3日近くは匿ってもらったのだと思います。
何が凄いって、このお墓、高橋さんの墓地の中にあるのですよ。
しかもお墓は、その後建て替えらてるんだろうなってわかる真新しい立派な造りで。
なのに、きちんと残してくれている。
前のお線香立てだって、ちゃんと撒兵隊士ように一つ用意されていて。
なんて優しい。
ちなみに、高橋さんのお墓の中、とは聞いていったんですけど。
周り、結構高橋さんでした。
道沿の高橋さんで、定右ヱ門って屋号が刻まれている高橋さんです。
そのまま木下街道を南下して、法宣庵。
私は歩きましたけど。
ここもうまくバス乗れたら楽だと思いますよ。
こちらも撒兵隊士、鈴木梅之輔。
吃驚するくらいご立派なお墓。
上記高橋家のお墓のように土地の人が建てた、ではないのが如実にわかります。
ご遺族の方かしら。
そしたらそしたで、地元に建てそうな気もするんですが。
この後も木下街道進む予定だったんですけど。
疲れちゃった。
バス乗って、近そうなところで降りようかと思ったら。
結構違う道に進んじゃって。
ちょっと予定変更。
大神宮下に移動です。
駅に近い東光寺は、近年撒兵隊士のお墓が見つかったとの記述があったんですが。
この本でも、ネットでも。
みんな見つからない見つからない書いてるんですよね。
しかしながら、1枚。
写真も発見して。
ならば私が見つけようではないですか!、なんて息まきましたけど。
見つかりませんでした、生意気言ってすみません。
やっぱりないのかしら。
ネットでみた写真も、以前のものでもうなくなったものもあるって書いてあって。
その写真以外のお墓は全部残っているの知ってるから。
でも最近見つかって、すぐそんな無くなる?
わからないなぁ、再チャレンジすべか。
気を取り直して、船橋大神宮。
撒兵隊第二大隊の本営です。
隊長は堀岩太郎。
境内には、東久世通禧と大山巌書の碑があります。
摂社もいくつかあって、その説明を読んでいくと。
ほぼほぼ「戊辰の戦火で焼失した」みたいに書かれていました。
なんか、ごめんなさい。
了源寺、菅野鋭亮。
敵方に捕まり、斬首されたそうです。
慈雲寺、綿貫元吉。
無縁墓の中にあるんですが。
無縁墓の前に、卒塔婆があって。
つい最近書かれたであろう、黒々とした墨の。
綿貫の戒名が書かれた卒塔婆が一本。
住職さんがご用意されたもののようで。
きちんと伝わって、弔ってもらえていることにいたく感動しました。
浄勝寺で、尾張藩磅礴隊士のお墓。
中島吉三郎、牧新次郎、佐久間達男。
撒兵隊敗走後、船橋で守備にあたっていましたが、賊徒に襲われ死亡。
他の方々と少し時期がずれますが、柴原の定めた17人の内の3人です。
海神まで移動して、海神念仏堂。
福岡藩士小室彌四郎と、従卒彦市、喜市、勝平のお墓です。
小室は、第一大隊隊長江原鋳三郎と組み合いになり、あわやというところで助けに入った江原の部下に斬られました。
この墓地、造りが雑然としてて。
道が繋がらないの。
見えるのに辿り着けない。
道路側のフェンスの切れ目から入れました。
このお墓の前に、以前撒兵隊士4人と。
薩摩兵士の墓があったそうですが。
もうなくなってしまったそうです。
なので、最近造ってた。
吃驚じゃない?
作り直すのはともかく。
無くなったものをまた造ったって。
どうやら文献やら絵図やらで復元したようですが。
本当?
薩摩と撒兵隊同じ墓に入ってたの?
同じ寺に敵味方のお墓があって、珍しいわねなんてことはありますが。
同じ墓に入ってるのは、流石に初めてかも。
どうやら元々は土地の人が建てたみたいですが。
優しい、が乱暴じゃない千葉県民よ(苦笑)?
んで、ここでもう一つ。
矢作さんのお家のお墓に、撒兵隊士のお墓があるんだけど見てこなかったって本にあって。
じゃあ、私が探そうではないですか!ってまたもや調子に乗ったんですよ。
で、矢作さんのお墓を探そうと思ったら。
すぐに発見。
しかしながら、別の問題が発生。
墓地の1/3くらいが矢作さん。
おおう。。。
想像するは、旭町の高橋さんのお家のお墓。
あんな感じのお墓を探して右往左往。
しかしながら、見つからない。
道も繋がってないから、大体全部見れてるかもわからない。
大体、私ごときが見つけようなんて烏滸がましいですよ。
諦めようかなと、ふと横を見ると。
慶応四年四月三日。
あ。
閏が抜けてるってのは元から聞いてたし。
必死で覗いた隙間から読める戒名は、聞いていたもので。
見つけたーーーー!!!
しいて言うなら、墓地の真ん中くらいでしょうか。
矢作さんは矢作さんなんですが。
同じ墓域、というよりは矢作さんのお墓に付属するように古いお墓が囲ってありました。
誰、というのも伝わってなくて。
慈誠院刃躍応居士。
一つ前の新造されたお墓を拡大していただけますでしょうか。
真ん中に、慈誠院臨刃躍応居士。
戒名が酷似しており、同一人物だと考えられています。
これ、さ。
実際のお墓見てもらえばわかるんだけど。
他の面に違う方の名前が刻まれてるんですよね。
信女だったから、こういう造り方ならおそらく血縁関係があるのだと思います。
だから、高橋家のように、匿った人のお墓を一緒に、っていうのは成り立たないと思うんですよ。
たぶん、亡くなったこの方は矢作さんなんですよ。
これってどういうことなんだろう。
歴代の方の墓があるなら、土地の方よね。
土地の方が、撒兵隊に参加したりするの?
それとも偶々地元に戻ってきたの?
鈴木梅之輔のお墓も違和感があるから。
なんか、ちょっと違う側面が見えてきたりしないのかな。
本当は後3つ、4つ見たいところがあったんですけど。
結構歩き回って疲れたので次回に持ち越し。
どうせ全部見れないし。
出来るなら、なるべく早くに続けたいものですが。
しかしながら、船橋市。
きちんとしてますよね。
案内板があったり、整備されてたり。
土地の人も、残そうという気でいるのがわかります。
それに引き換え、某木更津市は。
同じ時系列の戦いなのに、案内板もなえれば。
史跡すら朽ちるのに任せてる。
情けない。
市のボランティアしてなければ問い合わせしたいこともあるのですが。
やってる最中はちょっと動けないよね。。。
情けないな、私も。